銀の匙
はがれんの作者の方が書かれている漫画ですが、大変、非常に楽しい。
なんかこう、美味しいものを食べたくなる。
年を取るにつれて、いかに美味しいご飯を求めて、生きているか感じる。
ご飯だけでなくて、
音楽やら、
お酒、
コーヒー、
ドラマ、
お笑い、
人間、
なんでもそうで、いかに楽しもうか楽しもうか、を考えて生きてる。
その方法には、前提として、まず大きく二つの方法があって。
排他と同化。
これは、コインの表裏なんてことばがあると思うけど、まさに、それで、
人間の排他の行為は、それまでの自分の在り方への同化という点で、注目されるべきだと思う。
つまり、どちらも重要であると思う。
認知不協和理論、認知経済性、選好、いろいろな説明のされ方があると思うけど、人間の認知資源(限界がある、希少性がある、など、そこに価値が付加されるプロセスが社会的な部分であるとして考えます)をベースに考えたいと思う。
例えば、ご飯を作る際、ジャガイモとチーズをメインとして、バジルグラタンをつろうと考えた。
どんな風味、堅さ、熱への耐性、甘さ、色、どんなジャガイモを使うのか、
チーズ、牛に依って全然、塩味も、鼻を抜ける香りも、食感も違うチーズを使うのか、
バジル、産地に依って微妙に特有の香りの違いをどのようにスパイスに使うのか、
グラタンは、ご飯ベースかマカロニベースか、それらの産地は、調理は?
そして、それらの食品、食器、食べる空間の歴史は意味は?
食べさせたいのは?
もしくは、作ってくれるのは?
すべてに意味を付加していく、作業に近い。
だけど、行き過ぎは禁物、冗長なものは嫌われる。もちろん、社会全体が、こんな神経質に考えれば、その根底的な価値体系も変わるから、大丈夫かもしれない。
いやいや、それは今もある。金持ちの街。貧困街。バラック。どこにそのような価値体系があり、おいしさが作られている。
やはり、考えるべきは、冗長すぎないで、理解しやすい、だけど、ちょっと背伸び感あるような、だけど、ないような、そんな空間、時間での、食事。
一人よりは、複数の方がいいかもしれない。いや、それも、その人の気持ちによる。一人焼き肉なんて、かっこいいじゃん、みたいな。それもいい。
趣向をこらしたスイーツが口溶けの順番に味を現し、それらが、合わさっていくように、情報を処理する順番だってコントロールできるかもしれない。
そうすれば、時間的に最大限で、瞬間的には最適のおいしさを味わえるかもしれない。
同時にそれは、幸福であり、える。
悲しさが転じる場合もあるかもしれない。
人間は計り知れない。
楽しみのために知識、知恵を磨くことが絶対にひつようなことだけど、それ以上に必要なことは、楽しもうという気持ちであるように思われる。
もし、それがなければ、この世のすべての意味は消え去れる。
まあ、それはあり得ないので、同定できないので、常にヒトは最大限に楽しんでいるのかもしれない。
でも、人間である私たちは、それ以上の楽しみを受け取らせてもらえるように思う。
銀の匙を読んで強くそう思わされた。
そのために切に勉強しようと思う。
偏に、楽しむために。