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ブログでは主に、新聞や鑑賞した作品について書きます。

橋爪大三郎さんと大澤真幸さんと宮台真司さんのおどろきの中国を読んでいて改めて思ったのは、平時における感覚の低さ、低いっていう表現が正しいかは分からないけど。
 最近、誰かの死に際に直面した人が、それに感化されて自分の死に際について話すことを多く聞く、「お葬式はあげなくていい、だけどお経はあげてほしい」のようなものだ。そして、そんなに宗教観もってるの?と聞けば、いや、と言う。面白い話しだ。これは宗教的な依存というよりも、見送ってもらいたい、という願望の実現の一つの形式のように感じるが、まったくの整合性がなく、面白く感じてしまう。
 たぶん、自分が生きている自体が平時なのだろう。だから、それに直面した他者をみて、同一化し、想定外のできごとへ向かい合い、信じもしない形式依存により、それを達しようと考える。この仏教的習慣は、江戸時代に職業の安定を図るべく、制度的に作られた風習がいまでも継続されて続いているらしいが、現代においてその意味は何なのだろうか。当事者は経済的ないし、豊かな人間的生活の観点から、整合性のある、欠落のない理由を述べられるだろうか。そんなことを語ること自体がそれを満たさない行動だろうか。
 面白い統計結果がある、幸せに生きられるのは自分次第か社会秩序次第か、という二択の質問に対して、アメリカ、中国、ヨーロッパも自分次第と答える人は、6、7パーで、日本人は35%がそう答える。この統計上から行くと、比較的に日本人は現在の状況に自分というフィルター、行動が価値を決定していると考えているとなる。ならばなぜこんなことが起きるのか、包丁を持って暴れた人が現れれば想定外、原発問題があらわになれば想定外、自分が死にそうになれば信じもしない宗教に頼んでる、カフェに行けば、面白くもない仕事の愚痴を発露させ爆発させている人がいる。これは、この言葉の持つ意味に相違があるのでしょう。「自分次第」この言葉における状況が平時、すでに幸せな状況のもとで、それに意味を持たしているのでしょう。そして、それから少しはずれれば、社会秩序に責任を転嫁させ、自分次第、なんて言葉は頭の片隅にもないかのように振る舞う。理由ずけによる緩和もせず、じぶんで自分を傷つけて、感傷にひたっている。まるで、リストカッターのように。面白いですね。いくら幸福論が消費されても、なにも意味がないですよ。前提から違うんだから。そんなんなら資本論読めよ。いくらか楽になるわ。数字は如実だからね。逃れ続けられる、転化もできないから。