欲求と視野との関係性について
まず人間欲求について、欲求とはどういったものであろうか。
何かが欲しい、何かしたい、など口から発せられる場合こういった言葉になるだろう。では、もっと学術的にクロースしていきたい。欲求とは、そろ満たすためになんらかの行動、をとりたいと思わせ、それが満たされた時、快を感じる感覚のことである。生理的なものから、他愛的、社会的な高次なものまである。
アブラハムの欲求階層論を用いるなら、生理的欲求、安全への欲求、社会的欲求、自我欲求、自己実現欲求の5つの層をなし、低次のの欲求から満たされることで高次に移行していくとするものである。
ここで各階層の欲求について整理したい。
生理的欲求
生命の維持、子孫繁栄に必要な欲求。短期的な欲求である。
呼吸、飲食、排便、睡眠、性欲、逃避、闘争などがあたる。
安全への欲求
これは、生理的欲求が実害にさらされた時に、それに対応するための欲求と、心理的、社会的に安定した状態にとどまろうとするための欲求である。
心理、社会的欲求
以上に述べたことから、先天的に人間は群居性を持ち、また高度な思考能力を持つが故に社会的充実、知識の満足、他者を満足させるなど高次な欲求を持つ。マレーの臨床実験を借り記述すると、獲得、保存、秩序、保持、構成、優越、達成、承認、顕示、保身、劣等補助、防衛、反発、支配、恭順、模倣、自律、対立、攻撃、屈従、避難の回避、親和、拒絶、救助、遊戯、求知、解明、養護などが挙げられる。知識、名誉、地位を得るといった自己実現、他者からの承認、満足、ストレスの緩和、所有、改善、といった社会的な構成と、自己の生物的な欲求の高次と交差し、複雑な欲求を造り上げる。
自我、承認欲求
上で挙げたものにも重なってしまう部分もあるが、これらの高次的な欲求は承認欲求に密接に関係、おおきな影響を受けるものである。
欲求の発生から適応の図
欲求は、生理的なものから、高次的なものまで発展し、人間の行動に大きな影響を及ぼしているのである。人間の行動心理はだいたいが欲求解釈により、把握できる。しかし、思考の精神の均衡によって制御され、発散するか、維持、もしくは病的に人間に影響をおよぼすのである。
欲求というものの表面をなぞってきた。欲求は、経済から犯罪、健康、教育、etc…人間の心理が関わるすべてのものの多岐にわたりその存在を、潜ませ、必ず根底に存在しているのある。つまり、この感覚の理解ということが、人間社会においてどれだけ大きな存在で、いままでの人間の歴史が限りなく真には迫ってきたが、現代においても避けては通れない至大至重の課題であることは一目瞭然、周知の事実であろう。
今回、僕はこの欲求というものと、人間の視野、つまり世界を鳥瞰的に把握しうる能力、その範囲、明確性、継続性、多くの要素との関係性繋げ、欲求と思考との相互の影響について論じ、欲求という感覚についてより理解を深めたいと思うのである。
ここで、みなさんは一つ不明瞭な点を抱いていることと思う。視野についての記述である。世界を鳥瞰的に把握する能力?言葉の意味をつなぎ合わせて理解はできるが、その表現が真に意味する所は、一足す一は二であることのように事実として理解にはいたらないだろう。ここで皆さんにこの感覚を大切にしていただきたいのである。一足す一は二であるのである。これを事実として、体感として理解しうるものと、言葉上での理解にとどまるものの、この差異こそが、ここで論じようとしていることなのである。このことは、言語学、認知科学の分野にも関わり、広く深い大海原への冒険である。先人たちが、学問として体系をなし、示してくれた道しるべだけをたよりに、挑む挑戦なのである。
ではまず、視野と欲求の関連について、表面的なこと、冒険前の航海術の勉強をしたい。
まず、欲求というものには生理的なもの、後来的なものがあった。生理的なものは、人間、ないし生命体が、その生命の維持に必要不可欠なものである、しかし、人間では必要最低限と表現可能な欲求である。この欲求は、思考に関わらず、概念の影響は受けない。つまり、第一に論じたいのは、後来的欲求、高次的な欲求についてである。
この高次的な欲求は、人間が高度な思考能力を持っていることから、持たざる得ない欲求である。つまりその起原は、思考能力にあるといことである。では思考とはどのように生まれるものであるかを、考えてもらいたい。考えてもらってる間に、ひとつ変更を与えたい。最終的に欲求と思考について論じたい、つまり論理学的に言うと、このふたつを別の集合体として扱いたいので、この段階での思考と最終段階で用いられる思考とは別物として扱いたい、なぜそんなことが必要かというと、欲求と思考には潜在的が存在するので、ここでは思考を思惟と改めたい。大森荘蔵が示した、思惟とは思考と感情などを包括したもの、という定義において使用する。
話を戻し、思考とはどのように生まれるものであろう。このことについて、考えていただければ、もしすると、視野と欲求の関係について、私が論じたいことが見えてくるかもしれない。