信秀・信長父子の女選びの基準、

家康の妾選びの基準。

ハプスブルク家の「戦より結婚」策。


どれも納得よね。特に現代は国内で領土拡大戦争なんて出来ないもんね。結婚・婚外による子作りと先祖からの財産相続で所有資産の拡大を図るのみ。親ガチャというよりは先祖ガチャ。


女(或いは男)選びは日本の武将やヨーロッパの諸侯に限らないわよね。一般日本人庶民の男だって女だってそうだもん。女は、親の財産+本人の顔よりは体型だもの。そう、骨盤。大きくて立派な骨盤で多産系安産型かどうか、だもん。😉 






 

織田一門。
織田弾正忠から備後守になって死ぬまで、織田信秀は、四十二歳の生涯で、男十二人、女十一人の子供を残した。
その生涯を終えるまで、信秀は二十三人もの子を造った事になる。信長は三男になる。
これは大変な大仕事である。十八歳ぐらいから、次々と年児で拵えた勘定だから、定めし人並み優れた女好きと想われるが、そうではない。
まったくあべこべで、信秀の女嫌いは当時は有名な話だった。

当時、織田家といっても、信秀の生まれた家は、尾張の守護代斯波家の奉行職織田本家の又分家で、尾張八郡の内の一郡の四分の一ぐらいな所領しかない勝幡の城番だった。後年の前田利家の伯父与十郎が尾張海東郡荒子城で三千貫の身代だった頃、信秀はその十分の一もない身上だった。
大きな領主なら、首名(おとな)衆と呼ばれる重役共に任せて、己は花押だけ捺していれば済むだろうが、信秀のような中小勢力では、戦をするにしても自分が真っ先かけて槍をふるい、駒かけて先頭に立って奮闘するしかない。

そして身辺を固めてくれる者も同族だけなのである。

ところが一門、親族といった同族は、少しでも勢力を伸ばしてくると、やっかむのか、えてして協力はあまりしない。
信秀には、与二郎、孫三郎、造酒丞といった弟は居たが、どうしても新しい同族を、もっと拵えゆくしか、中小勢力としては発展のしようもなかった。
これが大領主なら、それ相応の隣国の大名からでも嫁をとり、婿をとりして、その里方と協力しあって国境を守り、他国へ攻め込みも出来るが、信秀のような小領主ではそんな大層なところからなど、嫁のきてがない。

といって、釣り合いの取れたところから妻を迎えてしまっては、それ相応の合力が得られるだけで、あまり先行きの発展が望めない。そこで信秀は正妻を決めず、例え二百でも三百でも兵力の集められる国内の土豪を探し、片っ端からその娘や妹を借り、己の子を産ませるようにした。

したがって、土豪たちは、自分の娘や妹が信秀の子をつくり(お腹さま)になっては、その親や兄達はどうしても、織田の同族となって、一緒に頑張って戦わざるを得ないから、見る間に信秀の勢力は拡張されていった。

 

前田与十郎も、娘が女児を産んだので合力したし、青山与三郎も、娘が二郎、後の三郎五郎を産んだため合力し、平手中務は、末の娘が三郎、後の信長を作ったから、これも仕方なく同族となっている。

林新五郎兄弟みたいに、己らの姉が嫁入った土田久安の娘が産んだ、四郎のちの信行を跡目に立てようと謀叛しかけた者もいたが、これらの新しい同族を作ったのである。そのために信秀は、ついに尾張八郡を切り取りその名主にまで成り上がれたのである。

女の美醜の選択は出来ない信秀

とはいえ、好きな女や綺麗な女を選んだのではなく、ただ、その父兄の兵力にだけ目をつけ、婚閥を作るために次々と、種馬のように苦労したのだから、信秀としては並大抵のことではなかったらしい。
浅井朝倉と宇佐山で戦った時、森蘭丸の父三佐と共に討ち死にした三人の上の兄の織田九郎の母御前などは、市江の豪族後藤の娘だったが、蜂に刺されたように痘痕の痕が酷く、鼻のひしゃげた凄い面相だったという。

 

だが、女達の器量のよしあしで依怙贔屓などすると、その親兄弟がうるさいから、信秀は公平に「一腹一子」という家憲をこしらえ、女が身ごもると、その岳父を生まれる子の御守役のように扱って、家臣の列に加えてしまい、そして次の女をと物色したらしい。こんな制度だから、中には性愛好きの女だっている。信秀が子供が出来ると他の女に移り、どうしても足が遠のき性欲を抑えきれなくなった平手の末娘で信長の母は、異教徒(神徒系)の男と浮気をしたらしく、これが露見して一族に殺されている。このことを知った信長は後に平手一族を根絶やしにしている。

 

だから兄妹二十三人、これ皆異腹なのである。
幸い信秀は色白な偉丈夫で、女に好かれる型だったから、何十人もの女が喜んでその子を産んだのであろう。
だが男は気張って子種を出す方だから、そこは腕や足のように思い通りに動くところではない。だから男として相当無理をして、さぞや大変だったろうと想像される。

 

三河安祥攻めの時、長陣になって月余にわたったことがあった。見かねて近臣が伽の娘を進めたところ、信秀は手を振って、
「わしは女子は好きじゃない」憮然とした面持ちで、泣きっ面を見せたと伝わっている。
他人は、何十人も妻をもった信秀が「女嫌い」というと面妖に想うだろうが、普通の男なら一人持っても持て余す妻を、それだけ次々と抱えたら、嫌になるのもこれは当たり前だろう。

その数多い女の中で、一人でも気に入った者が居れば、その産んだ児を跡目にするように、そっと遺言でもしていたろうが、信秀は全く何もしていなかった。
つまり生涯、好きな、愛した女は一人も居無かったらしい。

三男の信長が跡目を取ったのも、妻の実家の父が、近隣に鳴り響いた美濃の斉藤道三だったから、その財力と兵力がものを言ったのである。だから、織田有楽が駿河の今川の娘でも妻にしていたら、跡目は有楽に廻り、その後の天下の形成も全く変わっていただろう。ちなみに、信長は実家の権勢を嵩にきて権高い奇蝶には相当苦労したらしく、本妻の奇蝶との間には子は無かった。
が、側室は七人居て多くの子は残している。しかし信長は家名を残すために子作りはしているが、実際はホモだったのは有名な話で、当時、絶世の美少年とうたわれた万見仙千代を溺愛していたのは有名である。
 そして彼を取り合うため荒木村重と文字通り城を傾けるほどの戦をしている。この事から転訛して「傾城の美女」なる言葉も生まれたのである。

また、秀吉は若い娘ばかりを側室にし、相当な乱行をしたが、子供は一人も生まれていない。
淀君との御ひろいや、秀頼は実際の父親は大野治長との説が根強く、きっと種無しだったと想われる。

一方、天下を取った徳川家康は、本妻には長男の秀忠をかわきりに、男女十六人の子をなしている。
秀吉と違い、側室にするのは意識して、後家や年増女を多用している。何故かなれば、単なる年増好きの性癖とは異なり、何といっても子孫を作ることが大目的だから、過去に妊娠した実績のある女を選んだのである。


日本史編簒所の布衣草奔さんの記事のリブログです。布衣さん、有り難うございます。🙇‍♀️