嵐を呼ぶ男 | 逢えるじゃないか また明日 PartⅡ

逢えるじゃないか また明日 PartⅡ

ボスザウルスの隠れ家から「逢えるじゃないか また明日 PartⅡ」に変更しました。yahoo!ブログの閉鎖に伴い、アメブロに移動し、合体させました。引き続き宜しくお願いします。

ただ今編集中に付きしばらくは不完全ですので宜しく。

石原裕次郎 

やっと彼にたどり着いた
これから怒涛の如く 彼の事がこのブログを埋めることだろう
裕次郎ファンは未だに全国に沢山いるし 彼に詳しい方も山ほど居る
その方達を知るに連れ 自分の石原裕次郎に対するファン意識が薄いと感じたり
人前で石原裕次郎を語る事など出来ない と考えていた
だが 私の中の裕次郎はやはり 私の心の中に居る
だから 『私の石原裕次郎』を語っていきたいと思う

イメージ 1彼は間違いなく嵐を連れて来た。そして日本中を石原裕次郎台風で縦断した。彼を誰が連れてきたかは、言うまでも無い。兄の石原慎太郎。この兄弟の絆は固く、裕次郎が亡くなって20年近く経つ今でも、続いているといえる。














イメージ 2この映画が公開されたのが1957年 私はまだ小学生で、リアルタイムでこの映画を見ることは無かった。公開から7年ほど経った頃、リバイバルで公開されたものを見た。それだけの時間経過がありながらも、私の脳天を貫くような衝撃を受けた。この時期、今の石原プロ社長 渡哲也の売り出しの頃で、彼による「嵐を呼ぶ男」が公開された頃である。



イメージ 3♪おいらはドラマー ヤクザなドラマー おいらが怒れば嵐を呼ぶぜ 喧嘩がわりにドラムを叩きゃ 恋のウサも ぶっ飛ぶぜ
最初はボディーだ ボディーだチンだ おぅっとアッパー エ~イ面倒だ この辺でノックアウトだ




イメージ 4この「嵐を呼ぶ男」は、デビュー作の「太陽の季節」から15作目の作品。石原裕次郎の映画と言うと、デビュー作とこの「嵐を呼ぶ男」が上げられるが、この間の13本のなかにも、数々のヒット作が入っている。「狂った果実」「勝利者」「乳母車」「幕末太陽伝」「鷲と鷹」そして「俺は待ってるぜ」これらがヒットしなかった訳ではない。そして彼が、新生日活を支えたのである。


イメージ 5以前、川崎の鹿島田に住んでおられたおば様と知り合いだった。彼女の家は地元の映画館で、『嵐を呼ぶ男』の公開当時の話を聞いた事がある。連日連夜、長蛇の列が出来、毎回毎回立ち見で身動きが出来なかっただけではなく、映画館の扉が閉まらなかったそうだ。当時は入れ替えなど無く、封切りの二本の映画を、見ようと思えば、朝から晩まで繰り返し見られた時代。それがこの時だけは、入れ替えにしたそうだ。今では当たり前の事なのだが。






資料として参考に載せるが 1957年度の日本映画配収では この作品は三位。ちなみに一位は、「明治天皇と日露戦争」(新東宝)である。この映画は、親戚の広瀬康冶が出演していたので、家族で見に行った記憶がある。二位は「喜びも悲しみも幾歳月」(松竹)だった。