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明日もバッチリかましますよー。




iPhoneからの投稿




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賢人達は皆、「言葉とは、どういうつもりで発したかではなく、どう受け取られたかである」と仰る。まさに慧眼、すげぇええこと言うなぁと思う。

僕には他人の発する言葉に対して必要以上に懐疑的であったり、深読みをしすぎる傾向があるため、「言葉」というものに対して平均以上に敏感であると自負している。「自負」の使い方が間違ってるような気がするけどもね。

さて、先に書いたとおり、「言葉とは、どういうつもりで発したかではなく、どう受け取られたかである」、蓋し正論である。
たとえば「あなたの言葉に勇気づけられた」と言われた場合、それは間違っている。言葉にはそんな力はない。もしもあなたが僕の言葉で勇気づけられたのだとしたら、それは僕の言葉に「力」があったのではなく、あなたに僕の言葉を「理解」し、そしてそれを「消化」し、その上で自分を奮い立たせるだけの「力」があったということでしかないのだと思う。

というのも、もし万が一、『言葉そのもの』に力があるのだとしたら、「薬」のような効能があるのだとしたら、世界中のどんな人でも救えるような「魔法の言葉」があるはずだし、誰がその言葉を口にしてもたちまちに相手を元気にさせることができるはずではないか?

しかし、実際は違う。

片想いの相手にフラれた程度の相手に「世の中そう言うこともあるよ」と言って、相手が「そうだよな」と元気になったとする。しかし、末期癌を宣告された人に「世の中そう言うこともあるよ」と言って、相手は「そうだよな」となるだろうか? ならないだろう。前者は、まだ心に余裕があり、相手の言葉に「聞く耳」を持ち、それを「消化する力」があり、自分を奮い立たせる「力」が残っているだろうが、後者にはまず相手の言葉に「聞く耳」がないだろうし、あったとしても、「それはそうだけど…」と消化できないだろうし、そもそも「お前にオレの何がわかるんじゃ」となるだろう。

言葉とは全て、「受け取る側」のモチベーションに依拠しているのである。

それなのに、世の中には「発する側にイニシアティブがある」と信じて疑わない人がいて、そういう人たちがいるせいで、たくさんの「嫌な言葉」というのが生まれている気がする。

例えば、「オレは、お前のためを思って言っているんだよ」だとか、「心を鬼にして」だとかがそうであると思う。

「お前はオレのことを思ってくれてるのかも知れないけれど、オレはお前に、オレのことを思ってもらいたいと思わない」と思うことが多々ある。「心を鬼にして」と言われると、「オレのせいでお前が苦労してるみたいな感じになってるの?」と思う。

自殺を考えている人に、「生きてればいいこともあるさ」という言葉があるが、「それはお前の主観だろう」と思う。死のうと思っている人は、そもそも「生きていても良いことはない」、「死んだ方が良いことがある」と判断したから自殺を考えるのである。自殺ナメんな、と思う。

「頑張れ」とか「ちゃんとせぇ」とかも随分曖昧模糊としていて好きではない。

今回のこの件について、何を、どういう風に、どうこなしていくことが『頑張る』になるのか教えて欲しいし、『ちゃんと』っていうのはいったい何をどうすることを指しているのか、そう言った説明責任を一切無視して「ちゃんとして頑張れ」と平気の平佐で言うてくる人間のいかに多いことか。


言葉は人を救わない。


その人が救われたと思ったとしても、それは、その人にまだ自分で立ち上がれるだけの力が残っていたからである。

同様に、「言葉は人を傷つけない」とも思う。確かに、配慮の足りない、無慈悲な言葉で傷つく機会は多いかも知れない。しかしそれも、相手との関係であったりしないだろうか。「この人には何を言われても良い」と思えるほど、相手を信用していれば、少々の言葉に傷つくことはない。けれど、「お前には何も言われたくない」と思っている相手からの言葉であれば、「今日は良い天気だね」という言葉さえ不快に思えるかもしれない。

言葉は人を救わないし、言葉は人を傷つけない。言葉は単なる「きっかけ」でしかない。辛辣な言葉を受けて、傷つくのも受け流すのも、相田みつをの言葉を読んで、救われるのも唾棄するのも、全ては受け手の裁量なのである。

言葉を発する側は驕ってはならないし、言葉を受ける側は相手のせいにしてはいけないのである。
そして発する側も、受け取る側も、全てを「言葉のせい」、「言葉のお陰」にしてはいけないのである。

人を傷つけてしまった人は、言葉のせいにするのではなく、自分と相手の関係において、あの言葉は適切だったか、自分は相手にあの言葉をかけられるほどの信頼があったかを、関係性を反省するべきだと思うし、言葉で救われた人は、言葉に感謝する暇があったら、立ち上がることができた自分自身を褒めてあげて欲しいと思う。

昨今、名言集みたいなのが流行している。言葉が持ち上げられている。上記の理由から、僕は少し違うなーと思うのである。

少し違うなーと思いながらも、この「言葉は人を救わない」という言葉が名言集に載らないかなーってちょっと思ってしまってる自分もいるので、そういう煩悩まみれの僕は明日にでも白装束に身を包み、滝に打たれてこなければと思っている。





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体調も大分良くなってきて、昼間一日寝ていたせいで眠れないから色々と調べものをしてみた




『不老不死』


誰でも一度は考えたことあるんじゃないでしょうか?


僕も小さい時は考えていた




だってすごく強いじゃないか


死なないなら誰にも負けない


当時、宇宙一強いフリーザですら望んだ不老不死です







でも、そもそも、僕たち人間はなぜ死ぬんでしょうね?




調べてみると、不老不死の生物




…なんと



いましたよ





それは


あの





『大腸菌』





栄養や酸素、水分といった環境が整えば、永遠に生き続けるんだそうだ





さらには




『ベニクラゲ』




こいつは、厳密に言うと不老ではないのだけど


よぼよぼのおじいちゃんになって、いよいよ死ぬよって時に



蛹のような状態になり、その中でまた赤ちゃんに若返って



また成長を始めるらしい





ベニクラゲ素晴らしい

フリーザより素晴らしい









でも、さ




こいつらみたいに僕たち人間も不老不死なれないのかな?





そもそも、僕たちはなぜ死んじゃうのだろう?




通常、生物ってのは生きてる限り細胞分裂を繰り返してるわけなんだけれど



でも、それは永遠に繰り返すわけじゃない



DNAによって細胞分裂の限界が決められちゃってるわけらしいんだ



これを『ヘイフリック限界』というのだけれど



要はさ



神様に


「お前は100回までな」


とか言われちゃってるようなもんで





ヘイフリック限界を決めてるのがDNAの両方の端にある『テロメア』ってやつなのだけど、こいつが細胞分裂のたびにどんどん短くなっていくんだ



で、全部なくなってしまったときが寿命なんだけど



寿命がない大腸菌のDNAはどうなってるかっていうと



それが輪っかになっていて、端っこがない



なので、ずっと生き続けることができるってわけなんだ





で、ドクター・ゲロみたいな、どこぞの科学者がさ



実験してみたんですよ




寿命のある酵母菌のDNAを遺伝子操作して、大腸菌のようにリング状にしてみたらどうなるかって




するとどうなったと思う?








なんと不老不死になったんだ






これは凄い










し か し 





な ん と 







有性生殖の特徴が無くなっちゃったんだと






…え?いまいち意味が分からない?





つまり、卵子と精子によって増える有性生殖の機能を失って



無性生殖する生き物になっっちゃたってことで




サイヤ人だったんだけど、

ナメック星人になっちゃったみたいなことなんだ



つまりは雄雌関係なく一人で生殖が可能になったってこと





ちなみに、寿命がない生き物の特徴ってみんなこれなんだとさ





みんな卵子と精子によらずに、無性的に単体で増える



これがどういうことを意味しているかって言うと



つまり、有性生殖、父と母との遺伝子で子供が産まれる為には



どうしても寿命、「死」が必要ってわけなんだ






ここで一つ質問



有性生殖にはパートナーが必要


無性生殖はパートナーを必要としない




どちらが生物として完全だろうか?






断然、無性生殖だろうね




なぜなら、自分一人で完結出来るわけだから。



そういう意味では人間って生物としてものすごく不完全なわけですよ




一人では子孫を残せないわけですから




でも、あえて僕たちは不完全を選択したんだ





なぜか?











それは 





出逢いたいから








その為に、不老不死で生きる道を捨て


儚い人生を生きる不完全な生命でいることを選んだんだ



命をかけてまで






僕たちは、そんな不完全な生き物で



そんな儚いいのちの中で一生懸命生きてるわけなんですよ




でも、不完全な分、『愛』がある


人間は完全じゃないからこそ
助け合えるし
分かち合える

完璧じゃないからこそ


『愛し合える』







出逢いという奇跡

そこに『愛』があってはじめて命は生まれる


そう、僕たちは、2人分の愛から生まれてきているんだ



両親2人分



2人分の愛をもらっているんだ




2人分の愛をもらっているってことはつまり






『わたしたちは誰かを幸せにする愛をもう一つ持ってる』




ってこと


そうして、その愛を持って僕たちは出逢うために旅に出る


そんな人生を選んだんだ














遠い遠いまだ海にいた時の話



まだ単細胞だった僕たちは



神様に選択を迫られました




完全な生命体になるか




不完全な生命体になるか




ただ違ったのは




愛のある世界かどうかってこと










ぼくらは愛のある世界を選んだ











「感動とは人間の中にではなく、人と人の間にあるものだ」


Byウィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮者)




「感動」も

「愛」も

人と人との間にある



「人」との「間」にあるもの

そこに僕ら「人間」は命をかけたんです





きっとね





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