(バックのバンドメンバーから見て88年のNeo Geoツアーでパリに来た時のものか?歌う曲はちんぬくじゅーしーという曲で、実は民謡でなく1968年ころにフォーシスターズによって発表された沖縄ポップの先駆曲。作曲はフルート及びサックス奏者で民謡のひとではなく、沖縄ジャズの先駆の人。おきなわちゃんずは左から玉城一美、真ん中が古謝美佐子、右が我如古より子)
坂本龍一、というより教授のほうが僕らにはピンと来るかな。だからここでは彼を教授と呼ぼう。何故って、彼の40年以上のマニアックなファンである君は、常に“教授”と呼んでいたからね。きっとそんな音楽好きな同世代が他にもたくさんいるはずだ。早いもので彼が亡くなって、早くも二か月が立とうとしているが、未だに教授への追悼がインターネットにもマスメディアにも溢れかえり、同時にその人となり、そして音楽的な業績への賛辞が惜しみなく語られている。しかし、何故か教授とも縁の浅からぬ沖縄からの哀悼は本土ではあまり語られることはない。その視点での彼の業績が語られることもあまりない。そのキャリアを通じ、特にYMO散解後、彼が世界のSakamotoとなる80年代から90年代にかけて、教授は沖縄音楽に真剣に取り組み、深く関わってきたにも拘らず。
教授が沖縄音楽に関心を寄せ始めたのはいつからだったのだろう。芸大時代から民族音楽研究の大家で、沖縄音楽にも強い関心を示していた小泉文夫の薫陶を受けていたくらいだから、既にその頃から民族音楽的なものにも、そして沖縄音楽にも、ある程度の知識を得て興味を持ち続けていたはずだ。実際、彼のごく初期のアルバム、例えば彼自身が西欧音楽的ヴォキャブラリーを使って制作したと言い切ったファーストアルバム”千のナイフ”からさえ、既に西欧的なものとは言い難い音色やメロディ、リズムに溢れていたし、YMOのアルバム、テクノデリックのNEUE TANZでケチャ音楽を取り入れて見せたのは、以前よりガムランやケチャ等のインドネシアの音楽要素をソロアルバムで取り入れていた教授のイニシアチブによるものだろう。
(0:41から始まる男性の叫び声のようなもの、これがバリ島のケチャを模した部分で、その後も繰り返される)
高度な音楽的分析力のある人が調べれば、シロートにはわからなくとも、沖縄音楽の痕跡を彼の作品の初期のものから見つけ出すことができるのかもしれない。ただ、シロート目でも教授が沖縄音楽にはっきりと取り組んだことがわかるのは、彼が80年代後半に発表したNeo Geo とBeautyの2作に集中している。この2作では教授は自身の作る曲ではなく、元々、沖縄にあった曲をカバーあるいは引用するということで、誰にもわかるかたちではっきりと沖縄音楽を前面に出した。それはそれまでの民族音楽を取り入れるにしても、その民族的背景を抽象化して(思い切って言えば捨象して)、純音楽的観点からの特徴のみを自身の音楽に取り入れるという、それまでの教授の方法論とは全く別なアプローチだった。その変化はどうして起きたのだろう?
素直に考えれば、沖縄音楽を教授が自分の音楽に取り入れるきっかけ、あるいは大きな刺激になったのはYMOの同志だった細野晴臣の音楽だろう。細野さんは76年の彼自身のソロアルバム”泰安洋行”で沖縄音楽とニューオリンズR&Bを自身の中で発酵、融合させたルーチューガンボ(琉球ガンボという意味)を発表した。
この”泰安洋行”の発売を直前に控えた横浜中華街のライブに教授はキーボード奏者として参加、これが細野さんと教授との最初の出会いになった。その後、ふたりは親交を急速に深め、YMOの結成のきっかけになったという次のソロアルバム“はらいそ”に教授は引き続き参加する。このアルバムには沖縄民謡の大スタンダード“安里屋ゆんた”が、ストリングスさえもバックにつけた極彩色のサウンドとレゲエ風のリズムに乗せてカバーされているが、このシンセによる(?)ストリングスは教授の編曲なのかもしれない。
そしてこの同じ曲を教授は10年後に、今度は彼自身のレパートリーとしてBeautyでカバーすることとなるのだ。こうした細野さんの音楽との出会い、そして共同作業を通じ、教授が最も強く示唆を受けたのは、沖縄音楽の持つポップミュージックとしての可能性だろう。
(実は沖縄の代表的な民謡と思われている安里屋ゆんたも、実は簡単に民謡とは言い切れない複雑な出自を持っている。この辺りもいずれブログで発表したい。実は教授は沖縄民謡のディープなものはおそらく意識的に取り上げることを避けている)
今でこそ、沖縄民謡に限らず、現代的な楽器編成のサウンドをバックにつけてポップミュージック化した民族音楽は世界的にも、そして日本(本土)の中でさえ珍しくはない。しかし、1970年代の後半に喜納昌吉を通じて沖縄のポップミュージックを知った時の衝撃は、外部から見れば全く沖縄民謡的な要素を色濃く漂わせながら、ごく自然に素晴らしく魅力的かつ現代的なポップミュージックとして成立していることだったと思う。それまで、そんな音楽が、”日本にある”ことにも気づけなかった(僕たちはなんとナイーブ、いや無知なことだったろうか)。もちろん、そうした音楽が出来たのは天才音楽家、喜納昌吉の特異な個性に依るところも多いが、同時に沖縄音楽自体が持っている混血性、つまり様々な文化の混淆からから生まれた自己回帰性(ブラジル音楽ならそれをサウダージと呼ぶもの)と非自己性(=エキゾチズム)の分かち難い複合、そして、ゆったりと躍動するリズムと明るさと哀感が共存するトロピカル性があればこそのものだった。そして、これこそが細野晴臣に衝撃を与え、同質な特徴を持つカリブ海~南米~ハワイの他地域のトロピカル音楽とともに、彼のイエローマジックミュージックを形作る要素となったのだ。
根っからのポップミュージック音楽家である細野さんと違い、本質的には現代音楽、芸術音楽家だった教授は、YMOの予想を遥かに超えた世界的大ヒットで1980年代にはポップミュージックの最前線に立たされることを余儀なくされた。彼はそれに戸惑い、反発しつつも、YMO散開後は、世界の”Sakamoto”を、ポップミュージシャンとしての覚悟をもって引き受けるようになってゆく。この頃、欧米ポップミュージックで最先端のトレンドとして台頭しつつあったのが、ワールド・ミュージックだ。欧米では70年代のボブ・マ―リーのレゲエがきっかけとなり、今度はアフリカや中南米、一部のアジア音楽といった欧米の目からみてエキゾチックでトロピカルな民族的な大衆音楽が注目を集めた。そして、80年代半ばになると主にパリ発で民族的なヴォーカルやメロディの特徴はそのままで、当時最先端のエレクトリックサウンドで味付けして欧米人にもとっつきやすいポップミュージックにする試みが盛んに行われるようになる。その時に、教授の頭の中に改めて大きな存在として浮かび上がってきたのが、1970年代後半に教授自身も参加していた細野さんにとっての沖縄音楽とそのポップミュージックに開かれた民族音楽性だったのだ。もともとポップ音楽と相性の良い沖縄音楽は、ワールドミュージックの方法論にもうってつけと教授は考えたのだろうし、日本人、アジア人を意識せざる得ない世界の舞台では、アフリカ音楽やカリブ海音楽以上に彼にとって取り上げるに相応しいものに思えただったに違いない。この時期、教授はレコーディングだけでなく、生のステージでは"オキナワチャンズという沖縄民謡の若手女性一流歌手を三人に琉装させてバックコーラスとして使い、スタジオ録音以上に沖縄音楽をアピールするとともにステージをショーアップしていた。これはもしかしたら、ボブ・マーリーがジャマイカ女性歌手3人をアイスリーズと名付けてバックコーラスとして使っていたことにヒントを得て、当時の最もカリスマ的ポップ音楽スターに教授自身を擬えていたのかもしれない。
(ボブ・マーリー ↑、そして教授↓)
もっとも教授はそんな当時の欧米でのワールドミュージックを、そのままナイーブに踏襲して良しとする人ではない。彼は、民族音楽というものがどんなに深い西欧的音楽知識をもってしても理解しきれるものでない、複雑で豊かなニュアンスの音の塊であることを理解していたし、それを外部の音楽家が演じることはどんなに高度な技術を持ってしても不可能であることも知っていた。同時に、そうした配慮を欠いた欧米加工の民族音楽的ポップが、実際にはアイデア枯渇のロック・ポップミュージックのちょっとした目先を変えたいがための単なるスパイスがけ、ご都合主義にまみれた他文化の盗用によるポップミュージックの延命と利益追求になりかねないことも十分に承知していた。それは音楽美的にも、政治的モラルとしても教授には許し難い事だった。そこで教授が取った方法は、彼自身の豊かな作曲能力をあえて封印、沖縄現地の”うた”そのものの基本構造(=メロディー、リズム、テンポ、ウチナー口を使用したヴォーカル、そして伴奏としての三線)はできるだけ手を加えず加えずに使用、その構造に影響を与えかねない編曲も避けて、代わりに引用した沖縄の”うた”の周囲に教授自身が創ったシンセやストリングス、あるいは尖がったポップミュージック的なエレクトリック・バンドサウンド、果てはアフリカの声やインドのパーカッション、あるいはインドネシアのケチャを模した音をぶつける、あるいはその逆に沖縄の”うた”を教授の作った万華鏡的な混淆多民族サウンドの中に配するものだった。
(沖縄の曲の部分は耳切坊主というわらべ歌)
これは、沖縄を通し、現実には存在しない幻想のRoochoo(琉球)を追い求め、それゆえにオーセンティックな沖縄音楽に拘りは見せなかった盟友の細野さん=ロマンチストに対し、あくまで現実に存在する沖縄に対峙してゆこうという、終生変わらなかった態度を維持し続けた”現実主義者”としての教授らしい選択だった。そして、それを実践に移したのが87年のNeo Geo、そして沖縄音楽との関わりをより深化させた89年のBeautyだったのだ。
おそらく、この”教授が作曲をしない”アプローチは当時の君のような教授ファンに違和感と、そして幻滅感さえ与えたのではないだろうか?当時だけではない、今だって、教授のファンが戸惑っているであろうことは、これらの教授風沖縄曲がほとんど話題にならないことでも容易に想像できる。一方で、沖縄音楽のファンたちも、この時期の教授の作品はほとんどスルーしているのも実際のところなのだ。今、改めて聴き返してみると、こうした試みにアイデアの豊富さや才気は感じるにしても、少なくとも沖縄音楽に関わった部分では全面的にうまくいったとは僕にも思えない。残念なのは、オキナワチャンズのヴァ―カルにぶつけた教授のリズムトラックはやたら重厚で、沖縄音楽の持つトロピカル音楽的スイング感に重石をぶら下げてしまったように、僕には聴こえてしまうことだ。教授の狙いは沖縄音楽も含めた、様々な異質な文化背景を持つ音楽要素が、相互に化学反応を生み、そのことにより沖縄音楽の、そしてあらゆるポップミュージックが持つ多文化混淆性、混血性がさらに際立たせられ、新たな次元のものに転生を果たすことだったのだろう。だが、結果はそこまで行き着けただろうか?僕には疑問だ。むしろそれが教授らしくない強引な粗っぽさを引き起こしてしまったように聴こえないだろうか。なかにはスティーブン・フォスターの”金髪のジェニー”をまるで沖縄民謡化し、さらに教授流ワールドミュージックに仕立てた”Romance”のような面白いものもあるのだが。もっとも、それは教授の頭の中にあった音に対し、僕の保守的な固定概念に囚われていた沖縄音楽についての考えが、未だ追いつけていないせいなのかもしれないのだが。
80年代後半から90年代にかけての数年間でしかなかった教授の沖縄音楽との取り組みは、それでも彼自身が予想しなかっただろういくつかのインパクトを沖縄の音楽界に及ぼした。直接的には、90年代の日本での沖縄音楽ブームで中心的な役割を果たし、世界的にも注目を浴びたねーねーずがオキナワチャンズから生まれたことだ。オキナワチャンズは後にオリジナル・ネーネーズのリーダーとなり、ソロとしても童神をヒットさせた古謝美佐子、既に沖縄ではローカルヒット曲を持ち美人歌手として有名だった我如古より子、そして民謡一家で育ちやはり沖縄では若手スターだった玉城一美の三人からなる、今となっては大変な顔ぶれのオールスターグループ(何せ、この三人とも今や沖縄民謡界の女性重鎮たちなのだ)だったのだが、ネーネーズのアイデアはこの教授用に編成されたその場限りのグループを、沖縄民謡、ポップスの両分野で中心的な役割を長年果たしてきた知名定男のディレクションでレギュラーグループでやってみたい、ということから始まったのだった。
沖縄には1960年代から家族グループで、ほとんどの場合はボーカルは複数の女性姉妹たちが取るという民謡グループがいくつも存在した。これらの民謡グループはすべて、琉装した複数の女性歌手をフロントに立てて、ステージ上でのショーアップを図っており、オキナワチャンズもそれに倣っている。ただ女性ヴォーカルはソロで主旋律を取り、他の3人ほどの姉妹は囃子や合いの手を入れるといった形が主で、グループ全員がユニゾンで主旋律を歌う曲はあくまで従だった。知名はオキナワチャンズのユニゾンヴォーカルが、教授のかなり無茶な設定の下でも、予想を超えて力強く、しかも華やかでポップな存在感を持ちえたことに大いに刺激を受け、女性のユニゾンヴォーカルを主役にした音楽のアイデアを思い付いたのだと思う。実際には3人ものスターの寄せ集めをレギュラー化するには音楽外の問題で難しかったらしく、古謝美佐子を中心に知名定男が集めた他の3人という形でネーネーズはスタートすることになる。人数が3人から4人に増えたのは、オキナワチャンズの3人では声域が近いので、もうひとりより高音を加えてを加えたいという音楽監督の知名の意向だったという。そして、教授の過激といっていい試行の後では、もはや演者のネーネーズにも、ディレクターの知名にも、音楽上での躊躇や恐れることはもはやなかったのだ。
沖縄は南海の島という地理的要因とそこから生まれた歴史から、多文化受容の伝統=チャンプルー文化が根付いている。実は民謡に洋楽器を取り入れたり、他文化圏のメロディーを取り入れることは戦前から行われていたし、そして、1960年代半ばの民謡黄金時代にはコザ派と呼ばれた普久原恒勇、照屋林助そして知名定男のもとで従来の民謡に留まらないポップ化、モダン化の試みが盛んになる。この動きを考えれば、喜納昌吉のハイサイおじさんは、演者本人のイメージとは違って、異端の鬼っ子ではなく、出るべくしてでた沖縄音楽の伝統の正嫡なのだ。その意味で教授の試みも、そのスケールやぶっ飛び具合は、それ以前にはみられなかったものだったが、決して沖縄音楽の伝統から大きくはみ出たものとは言えない。ちなみに教授にオキナワチャンズのメンバーをコーディネートした三田信一さんはこうしたコザ派を支えた沖縄のトップジャズミュージシャンの一人であり、教授がオキナワチャンズとともに録音する”ちんぬくじゅーしー”の作曲者だ。
もっとも、沖縄にはそうした文化の開放性と受容性はあっても、それを逆に沖縄外の世界に放出してゆこう、という発想はほとんどなかったといっていい。だが、教授が創る音楽の中で、沖縄民謡そのもののヴォーカルが大舞台で全く臆することなく大きな役割を果たす大善戦を見せ、しかもそれが世界ツアーでも反響を得たという事実は、二つの点で、沖縄の音楽界にとても大きな自信を与えたと思うのだ。沖縄の音楽が強力な他文化の音楽に交じっても十分にその独自性を保っていけるということと、そして、やり方次第では世界の舞台でも十分に受け入れられる大きな可能性がある、ということで。沖縄音楽ブームの発火点は90年代早々のりんけんバンドのブレークだったといわれるが、同時にこの教授の試みもブームのスターターとして十分に機能したはずだ。特に沖縄音楽界が日本国内に留まらず、世界にまで視野に入れられたのは教授という前例があったからだろう。結果として、教授は沖縄音楽に世界への扉を開けてみせ、そっと背中を押したのだった。しかし、このことは未だに過小な評価しか受けていない。
教授はこのNeo GeoとBeautyの二作で彼流の沖縄音楽への取り組みに一段落がついたと思ったのだろうか、その後は新たに沖縄的な作品を発表することは2015年までぱったりとなくなってしまう。安里屋ユンタをオキナワチャンズなしで、彼のピアノとヴォーカルを披露していた90年代のステージ上のパフォーマンス、1999年の”オペラ” Lifeの中で、オキナワチャンズを再招集、”ちんさぐの花”(教授の沖縄モノとしてはもっとも素直で力みの抜けたアレンジで成功していた曲)を”Beauty”ヴァージョンとほぼ同じアレンジで演じる、といったライブでの例外はあるが。
もっともその後の教授が表面上、関わりを見せなくなったのは沖縄音楽だけではない。当時、関わったアフリカやインド、インドネシアなどのアジア各地の音楽も同様だったし、2000年代にはそうした民族音楽的な要素を取り入れるための器になったロックやR&Bなどの通常のポップミュージックからも距離を取り出し、環境音楽的な音楽を創っていくことが多くなる。こうした教授の作風の変遷は、民族音楽やそもそも民族音楽の20世紀的発展形態でもあるポップミュージックに興味を失ったというよりは、90年代から徐々に、そして2000年以降は急速に力を失った従来のポップミュージックに代わりうる、音楽によるコミュニケーションの別回路を見出そうという努力の反映なのだと思う。そしてそこでは、沖縄音楽を含む、特定の音楽共同体を前提として成り立つ音楽に、アウトサイダーである彼自身が関わっていく積極的な理由が見出せなかったのだろう。
2015年に教授は沖縄の女性ヴォーカルグループ、うないぐみとの共同名義でとの弥勒世果報(=みるくゆがふ)を発表する。ヴォーカルと三線のうないぐみは、オキナワチャンズに参加していた古謝美佐子と彼女のネーネーズ時代の仲間二人を含む沖縄の女性唄者4人によるヴォーカルユニット、つまり3/4ネーネーズ。シンプルで短いメロディーラインをウチナー口(=沖縄語)で何度も繰り返す、三線とネーネーズ流の沖縄民謡的ユニゾンヴォーカルをシロートが一聴すれば沖縄民謡に教授が彼自身のピアノとシンセで味付けしたものにしか聞こえないだろう。だが、実際にはこの曲は教授が2004年に発表した曲、Undercooledのリアレンジ・ヴァージョンで、この曲を聴いた古謝美佐子とうないぐみサイドからウチナー口=沖縄語で歌いたいという要望で創られたものなのだ。
うないぐみが参加するとぐっと沖縄っぽくなるが、これは曲がペントニック音階(ただし、琉球音階とは違うと思う)でできているためだろう。ペントニック音階を使い、音の間と響きを活かした、どことなく東洋的な曲を作るのは代表曲、戦場のメリークリスマスでも使われた教授の得意とする作曲法で、おそらく、原曲のUndercooledを創った時点では、彼はこの曲と沖縄を関連付けるアイデアは何らなかった。しかし、沖縄のうないぐみからこの曲を求められたことは教授にとっては決定的なことだった。それによって、教授が絶えることなく関心を持ち続けた現実の沖縄へと繋がる回路を、音楽を通じて持つ可能性が開けたのだから。この曲は21世紀からの彼の作品がしばしばそうであるように、とても政治的な色を持った音楽でもある。沖縄と日本が対立する大問題だった(いや、今もそうだ)辺野古基地建設に反対するメッセージソングなのだから。こうした教授の音楽までを巻き込んでの政治イデオロギー的な表現を批判する人も多い。しかし、現在の衰弱したポップミュージックでは、一部のアーチストのカリスマに依存することでしか維持できなくなってしまった表現者と聴衆とのコミュニケーションを、別回路で求めてゆきたいという教授の切実で真摯な思いがその音楽の中にはあったことを忘れてはならない。僕はこの曲こそ、教授の沖縄音楽ものの最良作だと思っているし、この音楽を聴けてとても嬉しかった。かつて世界へと沖縄音楽を誘った教授は、今度は、沖縄音楽と協力して、音を通じて僕らを沖縄の現実へ誘おうとしたのだ。


