私の父、
ガンで永眠したのが
昨年、2016年10月06日。

2015年に
膵臓ガンが奇跡的に早期で発見。

これは
透析に通っていたことで
その関係の検査から発覚したもの。

しんどいしんどい透析が
膵臓ガンであることを教えてくれた。

そして
その2015年10月末に摘出手術が行われた。

始めは膵臓の何パーセントかは温存できるはずだった。

が、
開いてみて
切ってみると切っても切っても
ガン細胞が取りきれず
結局、
膵臓は全摘出。
まわりの臓器もかなり切除され
あっちとこっちをくっつけてー。
なんて言う風に
父の内臓はなんもややこしいつなげかたに。

それでも手術は成功。

母からの電話で涙がとまらず
腰が抜けてしまったのを
今でも覚えている。









その手術から
一年足らずの
2016年7月末。


私にとっては大きな衝撃と
そして闘いが始まった。

8月に入ってすぐ
私は説明を受けるために両親に会った。










父のガンが肝臓に転移していると言うこと。
そして
風邪ひとつひかず、いつでも明るく元気でポジティブな母が
『ALS』だと診断された、と。。。







父の余命は3~4年。
母の余命は1~2年。だと言う。











8月は
私も子供たちの夏休みで
極力普通に過ごした。

父と母が安定したいたのが大きい。





が、
9月に入り
状態は悪くなる。

入院中だった母のところへ
毎日のように通っていた父との
連絡が時おりとれなくなる。

9月から私は
無期限休暇をお願いし
勤務シフトからはずしてもらっていた。

休職するには完璧なタイミングであった。

9月から
毎日のように父のところへ行くようになった。
高熱が頻繁に出るようになっていたのだ。

週に三回、透析に送って行き
その間に私は1度自宅に帰り
用事をして
中学生の息子には塾があるので 
ご飯を作って置いておき、
小学生の娘が放課後帰ってきたら 
娘を連れて
父を迎えに行き、
実家へと送り届けた。

透析のない日も
様子をうかがいに行った。

もちろん
父だけではないから
私は
母の病院にも顔を出していたし
父のことは
逐一母に報告するようにした。

この頃の母は
もう言葉を発することができなくなっていた。

典型的なALSの症状の出方(順番)とは違い
母は「えんげ」の方の進行が早かった。

喋れなくなった母は
自分の唾液を飲み込むこともできなくなった。

全てチューブによる吸引。








父の元へは
私の自宅から車で20~30分。
母の元へ(病院)は
実家から更に車で30分。




父の状態は益々悪くなっていった。

高熱が出始めていた。





私は父をある病院へ連れていったが
あれだけの熱があるにも関わらず
帰ることになった。

おかしい。。。

父が通院している大学病院の主治医が

次に高熱が出たらどこそこの病院にすぐ行くように

と指示をしてきたのに。

大学病院からは車だとすぐの病院。

提携病院なのだろう。

何の処置もしてもらえず
私は不信感を抱いて
また父を助手席に乗せて帰路についた。

帰り、父がランチをごちそうしてくれた。

美味しかった。幸せだった。
これが父との最後の食事になった。

(母との最後の食事はいつだったか。。。)

父を家に送り届け
一通り用事をして
実家をあとにしたが
それから数日。

父はまた高熱。
そしてひどい黄疸が出てきていた。

もうあかんって!

私は父に
大学病院へ行こうと説得を試みたが
大学病院は急に行っても診てもらえないから
と父は頑として行こうとしない。

かわりに
やはり以前何もせずに帰らせられた病院に
また行くことになった。



病院についてしばらく。

我々では何もできないです…

と言ってきたのは医師。



はぁ?
じゃぁ何もしてもらえないんですか!
大学病院にそちらから連絡して
すぐにそっちの救急に行けるように
手配してください!



力も入らず
気力体力ともにあまりに辛い父は
反論も反抗もお願いも言えなかったから
かわりに私がとにかく食い下がった。

父の為にお水を買い、
キャップも開けれない父の為にキャップをあけ
背中をちからいっぱいさすり、
声をかけ、
ひたすらそばについていた。

もちろん母にも連絡は入れていた。

結局
6時間は待たされた。

ようやく大学病院へ救急輸送してもらえることになった。







次回につづきます。。。