仏を念じる事とはどういう事なのでしょうか。
単純に考えれば佛さまを心の中で思い浮かべ念じる事です。
さて佛さまの何を思う事なのでしょう。
佛さまの教え、佛さまの姿、そして口称念仏です。
口称念仏とは念仏を、声を出して称える事です。
声を出さなければ口称念仏とは言いません。
声を出すと言う事には大きな意味があるのです。
始めて寺に行った人には念仏を声を出して称えられる人は殆どおられません。
恥ずかしさと、一瞬でしょうが私ごときは念仏を称える資格がない身である、と言うような思いが脳裏にひらめくのではないでしょうか。
その意識そのものが純真な心を迎え入れられる佛さまの思いなのではないでしょうか。
文章を写し書く時には、その写し書く所を声を出して読み、そして書く場合には間違えて書く事が少なくなります。
5桁の数字なども声を出してから書くと間違える事がなくなります。
思い浮かべ念じる事と、声を出して念じる事には大きな差が生じるのです。
勿論、口称だけの念仏は念仏にはなりません。
単なる呪文になってしまいます。
やはりその念仏の思いの中に弥陀の教えと姿が凝縮してこそ本当の念仏になるのでしょう。
そしてその思いが感謝の心となり佛さまへの帰命に繋がっていくのではないでしょうか。
ネットで源信の事について調べてみました。
『源信(942-1017)は往生要集を著しました。
源信は若くして比叡山に登り、天台宗の僧侶となりましたが、980年ごろ比叡山の北端にある横川に隠遁し、念仏を中心とする生活を送るようになりました。
そして985年には念仏の指南書として、この往生要集を著わしました。 念仏とは、文字どおり仏を念ずることです。
普通、念仏といえば、「南無阿弥陀仏」と称えることと理解されています。
もちろん源信は、このような称名念仏を、全ての人々が、どんな所にいても行えるものとして大切にします。
しかし天台宗の止観と呼ばれる瞑想法の伝統を重視する源信は、念仏を基本的に瞑想状態に入り、そのなかで阿弥陀仏の姿を心に想い浮かべる、いわゆる観想念仏として理解します。
往生要集の中では、このような観想念仏の方法がいくつか示されていますが、そのひとつに惣相観と呼ばれるものがあります。
これは阿弥陀仏の姿を三昧のなかで観想する方法で、まず心の中で、想像を絶するほど大きな阿弥陀仏の姿全体を想い浮かべ、その身から放たれる光は宇宙を隅々まで照らし出していると観想するものです。ここ で源信は、このように宇宙全体が阿弥陀仏の光に満たされていると念ずる行者は、心眼をもってわが身を見たとき、自分もまたその光に照らされていることを発見するのだと述べています。
仏教では人間を、無明におおわれ、計り知れないほどの昔から迷いの世界に流転している存在と受けとめています。
源信は、このような我々も、阿弥陀仏に心を向けることによって、仏の光の中に自分を見い出すことができると述べているのです。
ここで言う光は、仏の智慧をあらわしています。
この智慧の光は私たちを迷いの世界に繋ぎ止める無明を破る力を象徴しています。
この光に触れれば、迷いの世界に身を置きながら、その束縛から解放され、本当に自由に生きる道が開かれてきます。
このため源信は往生要集のなかで繰り返し阿弥陀仏の光を讃え、それに触れることの喜びを表明して止まないのです。』
この源信の教えを元として法然上人、親鸞聖人へと相続されたのでした。




