さて、第3回となりました廃軌道さんぽです。
今回は、各駅の歴史に少しですが触れながら、お散歩したいと思います。

あいにくの雨模様ですが、きっちりとノスタルジックに浸りながら進行したいと思います。
第1回の廃軌道さんぽの時は、結構、駅跡地の場所が分からず、位置確認できなかったこともありましたが、今回は予習してまいりました。
それでは、第3回廃軌道さんぽをスタートします。


甲斐青柳駅。(北西側から撮影)
対面式2面2線構造の終着駅。
1930(S5)年8月6日、開業。
1962(S37)年7月1日、前日6月30日のボロ電廃止に伴い、廃駅。

今回のスタート地点も、甲斐青柳駅です。
南巨摩郡富士川町(旧増穂町)青柳町にあります。
過去、ローソンだったこともありましたが、今は吉祥という台湾料理屋さんです。
そういえば、ボロ電は、島式ホーム無いですよね。何かこだわりがあるのでしょうか。


甲斐青柳駅。(北側から撮影)
ここには、町民バスの町民図書館前バス停があります。
かつては、山梨交通の乗合い自動車の転回場があり、青柳車庫バス停があったようですが、今は、町民図書館前バス停が設置されています。
ローソン時代に看板が建てられていたであろう支柱は、屋根の高さくらいで切断されています。


甲斐青柳駅。(北側から撮影)
台湾料理吉祥の南側にある富士川町町民会館(富士川町民図書館)の先には、車一台分が通れる路地が鰍沢に向かって南に延びています。
少し進むと、丁字路になり真っ直ぐ進むことは出来なくなります。
(写真を撮り忘れてしまいましたので、またの機会に写します)
鰍沢の街中を走るボロ電の姿を見て見たかったですが、ボロ電そのものが走っていない今は、想いを馳せることしかできません。


甲斐青柳駅〜長沢駅の間。(南側から撮影)
民家の軒先をかすめるようにボロ電は、走っていたのでしょうか。


長沢駅。(南側から撮影)
1面1線の棒線駅。
1930(S5)年8月6日開業。

写真左側の窪みが長沢駅の跡地のようです。
複数の資料で予習してまいりましたが、聞き込みを行なっていない駅ですので、今後行なってみます。
(追記R5.6.18:ご近所さんに聞込みした結果、長沢駅はココです、との証言を頂きました!ボロ電の本によっては、違う場所を撮影しているものもありましたが、やっと駅跡の裏付けが完了しました☑️)



利根川の隧道跡。(南側から撮影)
今は橋を渡って進行しますが、ここには、かつてボロ電専用のトンネルがありました。
当時の写真や動画を見ましたが、ボロ電に小さめのトンネルが、とても良い姿でした。

ボロ電の旅の原点。
利根川公園のモハ8です。
・山梨交通7形
・製造 1948(S23)年
・製造所 汽車製造東京支店
・製造台数 2台(モハ7 、モハ8)
・廃車 1986(S61)年4月

今回は、近くて観察してみることにしました。


モハ8の正面です。
連結器が特徴的とのことです。
上田丸子電鉄や江ノ島電鉄で運行された際、いくつか部品が取り外し、付け替えされています。

元の形に復元するには、
○行き先を示す方向幕の位置をフロントガラス中央上部に移動
○左右ヘッドライトを外して、フロントガラス中央下部の位置に取り外し式ヘッドライトを1つ取付
○左右の四角い尾灯を取り外して、丸型尾灯を下部左右端に取付
○簡易救助柵を取付
○801の番号を、8にする
などしょうか。

運転台です。
イメージしていたよりコンパクトです。
メーターの表示もかなりシンプルで驚きました。
フロント窓は今でも全開になるのでしょうか。


サイド面です。
屋根があるので、状態はとても良いです。


ボロ電の車内です。
板張りではなくビニール張りになっていました。
ボロ電が走っていた当時は、車両前後しか乗降口はなかったですが、江ノ電時代に中央部に乗降口が追加されたようです。


長沢新町駅。(南東側から撮影)
1面1線の棒線駅。
1930(S5)年8月6日、開業。
1959(S34)8月14日、県内を通過した台風7号の影響で、隣の荊沢駅間で路盤流出のため、一時不通。

初めまして長沢新町駅。
前回の探検の時は、予習不足で確認せず通り過ぎてしまった駅です。
今は、長沢区のリサイクルステーションが置かれています。
ここが駅であった痕跡は、道路から窪んだ地形以外、皆無です。


長沢廃軌道北交差点です。(南側から撮影)
長沢川を渡るため、緩やかに登っています。

長沢川を、超えたところでボロ電…いやコミュニティバスを発見。


荊沢駅。(南東側から撮影)
1面1線の棒線駅。
1930(S5)年6月1日、開業。
1959(S34)年8月14日、台風7号の影響でおよそ100メートルに渡り路盤流出し、一時不通。

今日は、道路工事中でした。
この駅は、窪みもなく調べなければ、ここが駅だったとは思えないです。


古市場駅。(南側から撮影)
1面1線の棒線駅。
1933(S8)年11月14日、開業。

月星商事株式会社山梨営業所が目印です。
月星商事の南側が駅跡地。
高速バス乗り場&駐車場になっています。
車が数台停まっているところが、駅の跡地でしょうか。(※追記。以後、調べてみたら、高速バス乗り場が跡地では無く、道路東側が駅跡の様でした。)


中央高速バスの古市場バス停。
山梨交通と京王バスが停まります。
京王バスも停まるんですね。
新宿行き。

甲斐大井駅。(南側から撮影)
1面1線の棒線駅です。
1930(S5)年5月1日、大井駅として開業。
ボロ電開業時、貢川駅から当駅までが開業区間。
1950(S25)年、国鉄との連帯運輸のため、甲斐大井駅と改称。

下宮地公民館の南側に窪みがありました。
この窪みが、駅跡地のようです。(※追記。甲斐大井駅は、この窪みではなく100メートルくらい北側の道路東側にあったと、聞き込みで判明しました。)
第1回廃軌道さんぽの時は、カーナビに下宮地公民館が出てこなかったので、ぐるぐる行ったり来たりしました。
困ったらトリップメーターで前の駅からの距離を測って駅跡地を探してました。 
この駅も、今後聞き込みしてみたいです。


小笠原下町駅。(南側から撮影)
1面1線の棒線駅。
1931(S6)年6月27日、開業。
多すぎる乗客分散のため、設置。

県民の森入口交差点の南側に位置する駅だったようです。
道路西側歩道の外側には、いくつか窪んだところがあり、小笠原下町駅の跡地をピンポイントで見つけることが出来ず、この辺りとしました。


小笠原駅。(南側から撮影)
相対式2面2線の交換駅。
1930(S5)年5月1日、開業。


今回、正確な場所を聞き込みしました。
南アルプス市役所入口で、老夫婦に話しかけたところ、「ここです。」と二人で同時に指差して教えてくださいました。
小笠原駅も、窪みありです。
上写真の道左右にある駐車場が駅跡地なのだそうです。
位置的には、南アルプス市役所の北側になります。

小笠原駅。(南側から撮影)
上の写真の横断歩道の辺りを中心に小笠原駅があったようです。


小笠原駅東側。(南東側から撮影)
駐車場の方が廃軌道より一段低くなっています。


小笠原駅前通り入り口。(南西側から撮影)


小笠原駅前通り。(西側から撮影)


小笠原駅前通りの街灯。
ボロ電が走っていた当時から建っている。


小笠原駅前通りの街灯に設置された駅前通プレート。


滝沢川に架かる桜橋。(南側から撮影)


巨摩高校前駅。(南側から撮影)
1面1線の棒線駅。
1930(S5年)5月1日、小笠原新田駅として開業。
1950(S25)年の運輸省駅一覧には、小笠原新田駅として提出。
1953(S28)年に行われた甲府市内のルート変更時に提出された路線図で、巨摩高校前駅と改称され、いつ改称したかは不明瞭。
参考ですが、宇和島にも小笠原新田という地名あり。

駅名にもなっている県立巨摩高校は、駅の北東に今も位置しています。
巨摩高校は、
1922(T11)年 県立第三高等女学校として創立
1924(T13)年 県立巨摩高等女学校に改称
1948(S23)年 県立巨摩高等学校
1950(S25)年 男女共学の実施
となっています。

当時の写真と比べて見ると、ホームより東側の道が、もう少し低く窪んでいたように感じます。



今も残る巨摩高校前駅のホーム。(南側から撮影)
数少ないボロ電の遺構です。


巨摩高校前駅のホーム。(北側から撮影)
初めて廃軌道探検した時は、わからず完全にスルーしていました。
ホーム跡を見て、なんとも、懐かしいノスタルジックな気分になりました。


桃園駅。(南側から撮影)
1面1線の棒線駅。
1936(S11)年7月15日、開業。
少し遅れての開業だが、理由は研究中。

桃園神社前交差点の北西角にあった駅。
今は、道路西側の歩道部分が駐車場となっています。


桃園駅。(南側から撮影)
駐車場の辺りが駅舎跡地だと思います。
なんか、ボロ電の駅跡地は、駐車場になっている確率高いように思うのは、私だけでしょうか。


南アルプス市コミュニティバス。
ウロウロしていると、必ず見かけます。
ボロ電の旅をしていると、
「あゝ、また逢えたね。」
という、これまた懐かしいようなノスタルジックな気分に心が動きます。


倉庫町駅。(南側から撮影)
1面1線の棒線駅。
1930(S5)年5月1日、開業。
この辺りは、かつて高尾街道の宿場町。
高尾街道は、高尾山参詣の街道。
明治時代、煙草の栽培が盛んな地域で、大蔵省専売局(現在の日本たばこ産業)が倉庫を多く建てたことが、地名の由来らしいです。

やっと見つけました、倉庫町駅。
これまで、わからずじまいで、困っていまして、今回聞き込みして、ピンポイントでわかりました。
巨摩共立病院東交差点の北西にあるシラネパック前の歩道が、倉庫町駅跡地なのだそうです。
荊沢駅と同じく発見難易度高い駅です。


甲斐飯野駅。(南西側から撮影)
相対式2面2線の交換可能駅。
1930(S5)年5月1日、飯野駅として開業。
1950(S5)年9月10日、国鉄との連帯運輸に伴い、甲斐飯野駅に改称。
末期頃には、西側の線路を取り外されて利用できなくなっていた。



北進してきたボロ電が東に進路を変える駅です。


甲斐飯野駅。(南西側から撮影)
以前、聞き込みした際、
・うちの軒先から乗りました
・中山さん(花のデパート中山生花店)の前が甲斐飯野駅でした
との内容でしたので、テナントの駐車場辺りが甲斐飯野駅だったと推測します。


在家塚駅。(西側から撮影)
1面1線の棒線駅。
1930(S5)年5月1日、開業。

アルプス通りが4車線化されており、駅の痕跡は皆無です。
だいたいこの辺のところで、撮影しました。

後日、開国橋から西に向かって車で走った際、この辺りの勾配がフラットになったのを見て、在家塚駅はここだと、一人で妄想しました。


西野駅。(西側から撮影)
相対式2面2線の交換可能駅。
1930(S5)年5月1日、開業。

廃線直前には、交換設備は使用停止だったそうです。
西野交差点付近にある農協の倉庫の手前に西野駅はあった…とあるが、アルプス通りが4車線化されたことで、痕跡は皆無となっています。
写真のとおり、南アルプス市コミュニティバスと、また遭遇しました。


今諏訪駅。(西側から撮影)
相対式2面2線の交換可能駅。
1930(S5)年5月1日、開業。

かつては、西側に側線があり、デワ1が留置されていたそうですが、末期には不動となり、この場所で解体廃車そうです。

道路南側の駐在所付近にバス停付近がありますが、かなり窪んでいます。ここが駅痕跡のようです。


農林高校前駅。(西側から撮影)
1面1線の駅。
1937(S12)年6月21日、競馬場前駅として開業。その後、飛行場前駅に改称。
1941(S16)年、釜無川駅に改称。
1951(S26)年3月20日、農林高校前駅に改称。


写真がなく棒線駅だったかどうかは、現時点、私的研究中です。
歩道部分が広くなっているところが、駅跡地と推測されます。
なんと、ボロ電史上、一番駅名が変わった駅が、農林高校前駅です。

①1928(S3)年に玉幡競馬場が建設され、その後、玉幡仮停留場という仮駅として年2回競馬場の会期に数日間開設。
1931(S6)年、満州事変勃発により、玉幡競馬場は閉鎖。
1932(S7)年10月、航空発動機練習所が開設。
1933(S8)年2月、40万平方メートルの飛行場が開設。
1936(S11)年、山梨航空研究会を設立し玉幡飛行場(山梨飛行場、甲府飛行場とも)を設置。
同年12月、陸軍が飛行場飛行機庫の新築工事を開始。
②1937(S12)年、競馬場前駅として常設化。
1939(S14)年7月、山梨航空技術学校設立認可。
1940(S15)年4月、熊谷陸軍飛行学校甲府分校開設。
同年8月、岐阜陸軍飛行學校に改称。
1942(S17)年1月、山梨航空機関学校と改称。航空整備士養成の専門校となる。
③競馬場駅が常設化した当時は、すでに玉幡競馬場は閉鎖され、陸軍の玉幡飛行場となっていたため、飛行場前駅と改称。
④今度は、軍事施設とわかる名前だったため、釜無川駅に改称。
1945(S20)年、終戦により山梨航空機関学校は閉校。玉幡飛行場は、国有地から県に払い下げられる。
1946(S21)年、旧山梨航空機関学校に、甲府空襲で校舎が消失した農林高校が移転。
⑤1951(S26)年、最終的に、農林高校前駅と改称した。
合計5回の名称改称があったようです。
駅に歴史あり…です。


玉幡駅。(南西側から撮影)
1面1線の棒線駅。
1930(S5)年5月1日、開業。
1959(S34)年8月14日、台風7号の影響で、上石田駅から玉幡駅までの間、架線柱が倒れて不通、のちに復旧。

玉幡交差点の南西側の理髪店と写真館があるところが、駅跡地のようです。
道路北側歩道が窪んでいます。
今までは、詳しい位置がわかりませんでしたが、今回聞き込み実施しました。
ココです、と指差しで教えてくださいました。

榎駅。(南西側から撮影)
相対式2面2線の交換可能駅。
1930(S5)年5月1日、開業。
1959(S34)年8月14日、台風7号の影響で、上石田駅から玉幡駅までの間、架線柱が倒れて不通、のちに復旧。

末期は交換設備が使用停止。
写真右側の歩道部分が大きく窪んだ形をしていますが、ここが駅跡地のようです。
ボロ電駅跡地探検の見つけやすさ度トップレベルです。
榎駅前には、大きな桜の木が植えられた広場がバス通りへと続いていたそうです。


徳行駅。(南西側から撮影)
1面1線の棒線駅。
1930(S5)年5月1日、開業。
1959(S34)年8月14日、台風7号の影響で、上石田駅から玉幡駅までの間、架線柱が倒れて不通、のちに復旧。

やっと場所見つけました。
今まで、チラチラ目には入っていましたが、ここが徳行駅の駅跡地だったとは!
ここだけ不自然に窪んでいます。
ELKのそばの自販機の所かと思っていましたが、こちらのようです。



貢川駅と貢川車庫(南西側から撮影)
貢川駅は、相対式2面2線の交換可能駅。
1930(S5)年5月1日、開業。
1959(S34)年8月14日、台風7号の影響で、上石田駅から玉幡駅までの間、架線柱が倒れて不通、のちに復旧。
貢川車庫も倒壊し、車両に被害。

貢川駅の駅跡地は、山梨交通のYKタクシーの乗り場となっています。

貢川車庫は、貢川駅の西側にあり、検査線2線、留置線1線があったようです。
1995年頃までは、山梨交通バスの貢川営業所であったが、その後、商用地に転用され、現在は、コジマ電気が入店している。
コジマ電気入り口付近の壁に、山梨交通株式会社と刻まれたプレートが定礎の横に設けられています。(第1回廃軌道さんぽ時に確認済み)


貢川駅と貢川車庫。(北東側から撮影)
山梨交通のYKタクシー乗り場内に、ボロ電のレールの残りがあるかなと、見渡してみましたが、何にもありませんでした。


上石田駅。(西側から撮影)
相対式2線2面の交換可能駅。
1930(S5)年9月19日、仮駅として開業。
1932(S7)年9月15日、少し移転して正式駅になる。
1959(S34)年8月14日、台風7号の影響で、上石田駅から玉幡駅までの間、架線柱が倒れて不通、のちに復旧。

現在は、上石田駅の北側に、片側2車線の4車線化された道路が建設されたが、駅跡地の痕跡は辛うじて残っています。
駅跡地東側にあったESSOも閉店し駐車場になっています。
上石田駅。(西側から撮影)
上石田駅下りホームの跡地の窪みは、恐らく柵で囲まれた歩道部分ではないかと推測します。
北側の上りホームは、痕跡は皆無です。


荒川橋に、近づいたところで山梨交通バスに出会いました。
カラーリングは、国際興業バス系のものです。
話は変わりますが、国際興業バスの創業者である小佐野賢治は山梨県甲州市勝沼町出身です。


荒川橋駅。(南西側から撮影)
1面1線の電停。安全地帯なし。
1932(S7)年9月15日、開業。

荒川橋から甲府駅前までは、併用軌道となる。
橋の真ん中にある駅は、珍しい気がします。

寿町駅。(西側から撮影)
1面1線の安全地帯なしの構造。
1932(S7)年11月27日、開業。

荒川橋を甲府駅側に渡ると商店が建ち並んでいたようです。
道路が拡張されて、跡地らしきものも遺構も、何も無いです。
付近には今も変わらず、寿町バス停があります。
後日、聞き込みしましたが、ピンポイントで駅跡地はわかりませんでした。


第二高校前駅と泉町駅。(西側から撮影)
第二高校前駅。
写真手前の信号機がある県民文化ホール北交差点付近が、第二高校前駅です。
1面1線の安全地帯なしの駅。
1932(S7)年10月13日、寿町駅として開業。
1932(S7)年11月27日、荒川橋駅との間に新たに寿町駅新設したことに伴い、高等女学校前駅に改称。
1951(S26)3月20日、学制改革による校名変更に伴い第二高校前駅に改称。

現在の県民文化ホール(コラニー文化ホール)は、甲府第二高校の跡地に建てられたものなのだそうです。
①1932(S7年)、相生町〜荒川橋間で唯一の電停で、寿町駅と名付けられる。
②1ヶ月後に開業した寿町電停に名前を譲り、近くにあった県立甲府第一高等女学校から、高等女学校前駅と改称。
1948(S23)年、学制改革で甲府第一高等女学校が、甲府第二高校と校名を変更。
③1951(S26)年、第二高校前駅と改称。
ちなみに、甲府第二高校とは、現在の甲府西高なのだそうです。

泉町駅。
1面1線の安全地帯なしの構造。
1932(S7)年11月27日、開業。

丸の内郵便局東交差点付近にあったようです。
付近には、歴史がありそうな網倉本店というお茶屋さんがあります。


相生町駅。(西側から撮影)
2面2線の安全地帯なしの構造。
1932(S7)年10月13日、1線で開業。
1938(S13)年10月3日、交換設備を設置し、2線となる。
北側に待避線が張り出した交換可能電停であったが、廃線時には使用不能に。

後日、聞き込みを実施しました。
・ボロ電が、相生町駅のところのL時カーブを曲がる時、倒れそうなくらい傾いて曲がっていた。
・相生町駅には、20〜30cmくらいの高さの乗り場があった。
・相生町駅があったのは、相生歩道橋交差点と検察庁南交差点の間くらいだった。
とのことでした。

私は、現時点、相生町駅の写真を見たことがないのですが、いつか見てみたいです。



相生町駅〜警察署前駅(南側から撮影)
山梨県の官公庁街です。
東側は、歓楽街が広がっています。
昭和の雰囲気を多く残す横丁路地も、いくつか残っています。


警察署前駅。(南側から撮影)
1面1線の安全地帯なしの構造。
1933(S8)年11月29日開業。
舞鶴通り上の併用軌道線は、書類上、錦町線となっていた。

1932(S7)11月の開業当時、警察署前駅の位置の南側に、錦町、県病院前という二つの電停があった。
1933(S8)年3月7日、現在の甲府警察署東交差点(の北側?)付近に、郵便局前電停が開業。
1933(S8)3月30日、舞鶴通りの錦町電停と県病院前駅の間にあった甲府地方裁判所に、ボロ電の通過音が響き公判に支障をきたすとのことから、錦町電停と県病院前電停を廃止し、中間に裁判所前電停を設置。
1933(S8)年11月29日、郵便局前電停付近の交通量が激しくなり危険とのことから、安全な交差点南側に警察署前電停が開業。
1933(S8)年12月7日、郵便局前電停が廃止。
1950(S25)年以前、いつかは定かではないが、裁判所前電停が廃止。

もともと、併用軌道線の電停だったため、駅跡地に遺構等は、何もありません
現在の甲府警察署は、1972(S47)年9月30日に建て替えられたもので、以前は北東角からも出入りができたらしいです。
1931(S6)年3月竣工した甲府郵便局の建物は、甲府市役所別館となっていたが、2010(H22)年甲府市役所建て替えにともない解体されています。
甲府空襲直後は、甲府市北新地内から甲府市内を見ると、甲府駅と郵便局以外残っていないように見えたと、祖父から聞きました。



防災新館東交差点のスクランブル交差点付近。(南側から撮影)
1930(S5)年3月31日竣工した山梨県庁舎別館は、当時と変わらない姿で建っています。


防災新館東交差点。(南側から撮影)
2009(H21)年、1973(S48)年竣工からアーバンなかごみ、甲府西武、山梨県民情報プラザなどとして使用されてきた建物は解体されて、現在は、山梨県庁防災新館となっています。
1960(S35)年から交差点北東角にあった山梨県民会館は、東京タワーの設計者で山梨県出身の内藤多仲が設計されたものです。
2015(H25)年7月、山梨県民会館は解体撤去され、現在は、芝生の広場となっています。


舞鶴陸橋。(東側から撮影)
写真左手は、ホテル内藤が解体中で、2020年のリニューアル(ホームページではReBORN)予定です。
裏通り的なところは、ボロ電が走っていた当時と同じです。


舞鶴陸橋下から甲府駅南口方向を望む。
山交百貨店東側(舞鶴陸橋の下)は、駐車場やゴミ捨て場となっていました。
カーブミラーが1本立っていましたが、役目を終えて、ただそこに佇んでいました。
ボロ電当時のものかと思い、確認しましたが、ボロ電より何年も後の比較的新しいカーブミラーでした。


甲府駅前駅。(東側から撮影)
1932(S7)年12月27日、甲府駅南口広場南東角に開業。1面1線の電停。
1936(S11)年、2面2線化。
戦災で、1面1線に戻る。
1953(S28)年、2階建て駅ビルの櫛形2面2線、平和通りルートから舞鶴通りルートに変更。

なんとなくではあるが、雰囲気が残る甲府駅前駅です。

平和通りルートは、またの機会に、廃軌道さんぽすることにします。
今回初めて、甲斐青柳駅から甲府駅前駅まで廃軌道さんぽの完走しました。

今度は、場所がピンポイントで特定できなかった駅や平和通りルートについても、さんぽしたいと思います。
お付き合いいただきまして、ありがとうございました。


それでは、第3回廃軌道さんぽを終わります。