今から56年前の今日、山梨県内を走る私鉄が廃線になりました。
山梨交通電車線という名称で地元の人からは、『ボロ電』と呼ばれて親しまれて来ました。
私は、ボロい電車がボロ電の意味だと思っていましたが、車両は新しく、駅舎がボロボロになっていたからであったようだと知ったのは、今年になってボロ電について調べ始めてからの事です。
利根川公園のモハ8も、私の廃軌道探検の原動力となりました。
廃軌道とは、ボロ電の線路跡にできた県道の呼び名です。
モータリゼーションの荒波に揉まれ、自家用車が一家に一台の時代が到来しだして、ボロ電は、わずか32年で廃線となってしまいました。
その後、客車8台のうち、戦後新車導入のため昭和23年に作られたモハ7、モハ8のみが長野県の上田丸子電鉄に譲渡され、丸子電鉄廃線後は、有名な江ノ島鎌倉観光(江ノ島電鉄)にて使用され、チョコ電の愛称で昭和61年4月まで運用されました。
そのモハ8が里帰りして、この廃軌道脇の利根川公園で歴史を伝え続けています。
もしも、があるとして、もしボロ電が今も走っていたならば、鉄道愛好家が集まり、また、地元の学生や通勤の足となっていたのかな、と想像するとなんとも言えない気分になり、今ボロ電が残っていないことがすこし残念ですが、もうどうしようもありません。
私は、幼い頃から、『廃軌道』という言葉を祖父母や両親から普段の会話で聞いた思い出があります。
これからも、廃軌道という言葉は残るとは思いますが、ここを山梨交通のボロ電が走っていたことについては、もしかしたら忘れられてしまうかもしれません。
今回から、廃軌道を旅してみて私なりにボロ電について、研究してみたいと思います。
そして、その記録として、本ブログに記(しるし)します。