新潟のホテルをチェックアウトして、駅に向かう。新潟駅の高架化は完了したが、駅前広場の整備はこれからっといったところ。

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850分発の白新線経由村上行に乗った。ホテルの朝食をたらふく食べたので、車内では瞼が重くなる。逆らわずに過ごし、目が覚めると、列車は佐々木駅手前の名所カーブに差しかかるところだった。遠くに見える飯豊山脈の残雪が美しい。930 分着の新発田下車。先程の飯豊山が、より近くに見えている。そして肌寒い。

 

駅舎から外へ出る時、バスのりばの案内を眺める。その中の一つの行先に目が留まった。


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「東赤谷」

 

今回、新発田にやって来た目的がこの地名にゆかりのある場所を訪ねることなのだ。しかし、現在のバス路線に東赤谷行はないはず。改めて、件のバスのりばへ行くと、やはりだった。

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駅の案内が訂正するのを忘れるくらいの場所・東赤谷。

 

かつて、新発田から赤谷線という国鉄ローカル線があった。新発田から会津へ向かうかつての会津街道沿いを走り、関所があった赤谷集落をかすめて、赤谷鉱山へ連なる東赤谷まで運行されていた。

 

赤谷線関連の資料を検索すると、短い路線ながら、風景、沿線の利用客の表情、そして鉱山に関連する開業の経緯など、興味はつきなかった。また終点の東赤谷の住民だった、やぶからす氏のブログ「緑の谷・赤い谷」

yabukarasu.blog.fc2.com

に出会い、当時の人々に思いを馳せるようになる。すると、どうしても現地に行きたくなった。

 

東赤谷へ行くバスは先述の通り、もう無い。手前の赤谷へ行くにしても、休日2往復しか便がなく、昼過ぎに運行が終わるため、利用できない。そこで、レンタサイクルを利用することにした。赤谷線の跡はサイクリングロードになっているので都合が良い。私はさっそく、観光案内所に足を運んだ。

 

 

「赤谷線・歴史探勝の道」の看板が建つ、サイクリングロードの出発地点に立つ。看板は老朽化が進んでいて、このままだと数年で判読不能になりそうだ。

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赤谷線は新発田を出発すると、最初の駅は時刻表に乗っていない仮乗降場の「東中学校前」だった。駅の痕跡は分からなかったが、サイクリングロード近くに新発田市立東中学校が現存しており、当時のアクセスの良さが分かる。

 

天気が怪しくなってきて、小雨がぱらついてくる。やがて、古びた倉庫が現れた。小さなホームもある。ここが、難読駅名の五十公野(いじみの)駅跡なのだった。

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五十公野は昔の豪族ゆかりの地名で地元に馴染んでおり、珍しいといっているのは、よそ者だ。駅跡の見学をしたいのに、親子連れが陣取っていて、なかなかどいてくれない。仕方なく、撮影のみに留めて、先へ進む。

 

五十公野を出ると、市街地をぬけて視界が広がった。開放的な気分になり、ペダルを漕ぐのも軽やかなる。飯豊山脈とスイセンの対比が美しさに見とれていたら、いつのまにか新江口駅跡を通過していた。

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県道14号を横断し、山裾に入っていくと、赤谷線の主要駅の一つだった米倉駅跡に着く。

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米倉は、朝の通勤通学対応で折り返し列車が設定されていた。ここで小休止する。

 この先は木々の合間を縫うようになり、暗い雰囲気が漂う空間が続く、速度を落としてゆっくり走る。しばらく走ると、山内という手書きの町名表示があって、児童公園前に着く。

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ソメイヨシノと、しだれ桜が満開だった。

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公園の少し先が新山内駅跡で、付近は史跡公園になっている。ここで休憩とする。

 

山内は昔、宿場があった町で、藩の境界だったことから番所が置かれていた。公園内は番所の門が復元されている。近くには、会津藩との揉め事に巻き込まれた新発田藩の井上久助が処刑された地との表示もある。新発田藩は幕末の戊辰戦争で最初は会津藩と共に新政府軍と戦ったものの、のちに寝返っている。もしかして、井上久助の件が影響しているとするのは考えすぎだろうか。

 

休憩を終え、出発すると見事な直線だ。

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加治川が迫ってくると桜のトンネルとなり、県道と合流する中々山地区でサイクリングロードは終点となった。新発田を出発して、
1時間40分が経過していた。

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赤谷線の廃線跡で有名な天井水路が、サイクリングロードの終点の先に見える。廃線跡マニアの血が騒いできたので、先へ進む。

 

歩道のない県道を走るが、車の交通量は少ない。加治川と飯豊山脈の風景が美しかった。

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しばらくすると、県道から別れる道があり、何となく走ると、古びた建物が現れて、私は声を上げた。ここが赤谷駅跡だったのである。

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古びた建物は、赤谷駅の駅舎だったもので、路線廃止後39年が経過しているのに、現存していることに驚く。赤谷は東赤谷まで延伸する前の終着駅だった場所だが、周囲を見渡すと人家は少ない。廃線後に廃屋になった家もあると思うが、なぜこんな寂しい箇所に駅を設けたのか疑問に思った。赤谷集落はもう少し先にあり、駅の利用はさぞかし不便だったと思う。

 

その答えらしきものが、最近手に入れた宮脇俊三氏の著作にあり、赤谷駅から先は上り勾配になるため、町の中心部に駅を造ることが叶わなかったという見解だ。なるほどとおもったが、この地域は豪雪地帯でも大変な苦労をしてあるので、たとえ駅が遠くても住民は赤谷線の利用をしていたのだろう。

 

もう少し先へ進むと、突然橋脚が現れる。

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ここにきてようやくリアルな鉄道遺跡に巡り合った。赤谷線の跡は道路拡張に使われたので、ルートから外れたこの橋梁は取り残されたようだ。
39年も放置された鉄橋の生命力には感心する。

 

終点の東赤谷駅跡までは、この先に分岐する県道335号をたどれば到達できる。しかし、ここがタイムリミットだった。東赤谷では感傷に浸りながら長時間過ごすことになる筈だから、次回に持ち越すことは正解だろう。

 

ここまでの道のりは、赤谷に近づくに連れて、素朴感と鬱蒼な風景が寂しさを誘った。それでも、この感覚は現地に立たないと味わえないので、来てよかったと思う。少しでも赤谷線の残像に触れることができて、有意義な時間であった。