司馬遼太郎先生の「播磨灘物語」を読んで、「軍師官兵衛」を視聴していることは以前書いた。
 
 
信長が安土にこだわった経緯を感じたいため、5月は安土城に行った訳だが、今度は秀吉の事業を見てみることにする。
 
 
北野天満宮の境内で、石組みの排水路が見つかったという新聞記事を見たのは、もう1年近く前になるだろうか。この排水路は、秀吉が京都の街を囲むように築いた土塁「御土居」のうち、北野天満宮に現存する地下から発見されたとのことだが、今まで存在を知らなかった「御土居」そのものに私は関心が向いた。
 
 
最近、仲間と城めぐりをしているので、城郭構造の痕跡を見る楽しみが自分の中に芽生えている。今回は城郭とは少し意味合いが違うかもしれないが、「御土居」とともに歩んできた町を見てみたいと思ったのだった。
 
 


 
 
 
京都市北区に「大宮交通公園」という施設がある。初めて行く場所だったが、もと京都市電の車両が、児童図書室として解放されているのを見た私は、思わず乗りこんでしばらく車内見学。車両も貴重だったが、置かれている書籍が懐かしい。子供の頃、学校の図書室で過ごした記憶がよみがえってきて、パラパラと読んでしまう。
 
 
しかし、交通公園に来たのは電車が目的ではない。園内に「御土居」の一部が現存しているからだ。
 
 
初めて見る「御土居」は、公園の隅でひっそりと存在感を示していた。
 
 
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思いを巡らせながら、たたずんでいると、「閉館の時間になったので、退場して下さい」の放送。今日は所用のついでにやってきたので、到着したのが夕方になってしまったのだ。
 
 
指示にしたがって退場し、外からもう一度「御土居」を眺め、方角を確認する。
 
 
手にしている昭文社「文庫地図・京都」を見ると、「御土居」があった部分がそのまま、町の境界線となっており、それが公園の「御土居」の向きと一致するのだ。こういうのを発見するだけでわくわくしてしまう。住宅街の中にある公園の外に雑林があり、これも「御土居」の跡と推理すると、探検度が増していく。
 
 
 
次に到着した「御土居史跡公園」は施錠されており、もっと間近で見たかった「御土居」を外から眺めるが心底悔しい。
 
 
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この後は「御土居」のあった場所と並行するように、町歩きをする。観光地でない住宅街だが、未だに古い建造物が多くあり、これらを見るのは楽しい時間だった。
 
 
途中、町を流れる紙屋川を見るため、橋のたもとに立つが、「御土居」があった時代は、紙屋川が掘の代わりを成していたということなので、この風景はそういうイメージで見れないこともない。
 
 
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再び歩いて、次にたどり着いた「御土居」はこれまで見てきたそれとは違い、小ぶりなものだった。
 
 
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街道歩きも好きな当方としては、これをみると一里塚を連想してしまう。
 
 
それにしても、よくぞ住宅街の中に今まで生き残ったものだ。これも国の史跡に指定されているおかげだ。この時点で18時を過ぎたので、探訪はここまで終了とする。
 
 
現在の町並みに残る「御土居」を見ると、その必要性が乏しく感じられるが、昔の河川は今と違い、コンクリートで整備されていた訳ではないし、大雨で水かさが増した河川氾濫が悩みの種だったのだろう。
 
 
今、各地で建造されている「防潮堤」が「御土居」と同じ役割だったのだと思うと、秀吉が事業に執念を費やしたことに理解もできる。
 
 
そんなことを考えながらの探訪は、有意義なものであった。