山田方谷(ほうこく)は、江戸時代末期、備中松山藩に勤め、困窮した藩財政を大胆な改革で、見事に立て直した人物で知られる。また、江戸幕府で老中を務める藩主・板倉勝静にさまざまな意見を伝え、板倉の幕府での立場を揺るぎないものにすることにも尽力した。
 
 
 
私が山田方谷の存在を知ったきっかけは、同じく江戸時代末期に越後長岡藩の家老であった河井継之助の生涯を追った際、資料や関連書物を見ていくうちに方谷が登場してきたことによる。河井も斬新な幕政改革を遂行し、家老を経て、軍事総督になった晩年、戊辰戦争で、新政府軍を相手に壮絶な戦いを指揮したが、そのような河井の政治手法の手本となったのが、山田方谷であった。
 
 
 
長岡藩でまだ主要人物になっていない頃の河合は、方谷の存在を知り、教えを請うため、備中松山へ向けて出発している。方谷に師事した河井は備中松山に長期間滞在して、帰国後の長岡藩での政治の礎を築いていったのであった。
 
 


 
 
 
JR西日本の伯備線に「方谷」という駅がある。今となっては、山田方谷が由来の駅名と連想できるが、駅が開業するにあたっては、ちょっとした言い伝えがある。
 
 
 
駅名を決めるにあたって、当時の住民たちは地元に大きく貢献した山田方谷の名を残したいため、駅名に名前を使いたいと申し出たが、「駅名に人の名前を使うなんて例がない」と難色を示されたという。
 
 
 
結局、駅付近の地形を現す「西方の谷」という解釈で「方谷」という名前に落ち着いたというらしいから、住民の熱意の高さがうかがえる。
 
 
 
河井継之助のファンである私は、河合の師匠である山田方谷についてもいろいろ知りたくなり、関連書物を読んだりしていたが、とうとう方谷駅に行く決心をしたのだった。
 
 
 


 
 
雨中の訪問だったが、方谷の邸宅跡に建ったという駅に来るには気持ち的に良かったのかも知れない。昭和3年に開業した駅舎は当時のままで、鉄道ファンとしても訪れる価値がある。古びているが、重厚的な腰掛に座ってしばらく時を過ごす。
 
 
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駅周辺は高梁川に沿った静かな場所で、昔も鉄道や自動車が走っていなければ、川の音が聞こえるだけで、方谷が生きていた頃と雰囲気は同じようなものだったと思う。そのような場所に居を構えた方谷の心情に思いを馳せた。
 
 
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河井が方谷に別れを告げ、長岡へ帰国する際、見送りにきた方谷に高梁川の対岸で何度も膝まついて別れを惜しんだという。結局、この二人はこの時が永遠の別れになってしまったのだが、その横に生えていた木がこの伝説にちなんで「見返りの榎」と呼ばれ、現存している。
 
 
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この木を眺めると、あこがれの場所に来れて感慨深かった一方、河井と方谷がもし再会できたなら、その先の歴史がどうなっていただろうかという気持ちも感じないわけにはいかないのだった。
 
 
参考
「ウィキペディア・方谷駅」「学研・歴史群像シリーズ・会津戦争」