劇場版テレクラキャノンボール2013→バクステ→愛の渦、という振れ幅。
そして帰ってきてから、DOCUMENT 愛咲れいら。
すごく正直な感想として、バクステに物足りなさを感じてしまったのは事実。
それはもちろん、服を着ているからとか、そんな単純な話ではなくて。
なんだろう、キレイすぎるのかな。
人間て、果てしなくえげつない。
以下、完全に自分の考えを整理し記録するためのものなので
もしたまたま見た方が「何が言いたいのか全然わかんねーよ」と思っても
なんていうか…気にしないでください。
DVD版を見て号泣した自分が、劇場版を見ながら抱いた違和感。
最大は、観客の反応への違和感。
生唾を飲み込みながら、じっくりと見たいところで起きる、笑い。
DVD版を見ていることで、基本的に“何が起きるのか”は知っている。
だからそこでの驚きがないのは当たり前なのだけれど。
たとえば、第一印象として“強烈”な相手が出てくることで、“驚く”というのはわかる。
けどそれが“おかしい”“笑える”というのは、ちょっと今ひとつわからない。
なんていうかな。
生身の人間だから、“これはキツイ”“これは無理”っていう相手がいるのは当然。
もちろんその基準は人によって違うのだけれど。
そうした状況に遭遇したときの、監督達の心情、場合によっては当惑や
それとともに、いわば“どうでもいい戦い”に勝ちたいという気持ちとの葛藤、
もろもろ想像をかき立てられる、抱えた思いが存在する。
一方で、出演を承諾した当人たちにも、お金のためということだけではなく
それを承諾したそれなりの意図や理由がある。
承諾のハードルの高さもまた人それぞれだけれど、その高さの違いにも面白みはあるし
決断した理由にもまた、面白みがある。
そこをじっくりと見ていきたいときに、刹那的な笑いの要素として処理されてしまうのは
あまりにもったいないと感じるとともに、
集団の狂気のようなものもまた、感じてしまう。
狂気はまた、凶器。
いわゆる炎上とも通ずる、現代的病理の道筋。
それが監督の意図したものなのかどうか?というところはあるのだけれど
と考えていて、思い出したのがボーイズ・オン・ザ・ランのPV。
あそこに出てくる人たちって、感覚的に言って、変。
変だし、確かに笑えるんだけど、同時に愛せるんだよな。
笑いの質は少しだけど確実に違う。
そう、微笑めるけど嘲笑えない。
人が簡単に飛び越えられないところを飛び越えていった人たちは、やっぱりすごくて
それぞれがそれぞれに魅力的なんだよ。
なぜ微笑めるかといえば、それは撮影者から取材対象者への愛を感じるから。
恋はもちろんないよ。だけど愛はある。
書きながら少しずつ解きほぐされている。
作中で、“これはヤバイ”とか、“よくやるなぁ…”といった趣旨の言葉は飛び交っている。
けどそれはやっぱり観客の爆笑とは違う。
言葉を発する主体がそこに存在することで、一つの責任を引き受けている。
観客は無責任だ。無責任でいいかもしれないけれど、ちょっと不快なのも事実だった。
わかりやすくまとめ上げたことで、ドキュメント的なものがスタジオバラエティ的になってしまったのか
あるいは観客がドキュメントよりもスタジオバラエティに慣れてしまっているのか。
あーそれと、松尾さんは2時間版の方が好きだと言っていた
(正確には“方が”とは言っていないかも)のは、プロとしては正しい在り方なんだろうと思う。
というか、そのように作ることは必要なことなんだと思う。
10時間版の方が好きだな…と思ってしまうのは自分が青いからなのかとも思うけど
考えてみると、1人で見たらまた印象違うのかもしれないな。
そう思うと、“劇場版”もDVD化(または配信でもいいから)してくれないかな。
それから、愛の渦。
前半部分の、プロレスで言うところのヒート具合と、ファイアーしてからの緩急がステキだった。
うーんだけどどうなんだろう。
場の空気があそこまで行ったり来たりするもんなんだろうか。
あれって生々しいのかな。ちょっとわからん。
翌朝の明け方、着替え終えた後のところとか、あそこまでまたぎこちなくなるもんだろうか。
現実に引き戻される形で反動があるのはわかるけれど、ちょっとデフォルメされてる気がした。
とりあえずここまで。書きたくなったらまた続き。