なぜ3月25日なのか?
それには訳があります。
もう15年前の話です。
当時、僕は22歳の大学生。
その日、僕は病院の待合室にいました。
病院に寝泊りしだしてからすでに12日が経っていました。
話はさらに数日前にさかのぼります。
平成2年3月13日の深夜のこと
僕は高校時代からかわいがっていたラグビー部の後輩を
引きつれ山手線の有楽町から新橋までの間の線路脇にある金網の
塗装工事のアルバイトをしていました。
線路側の金網は、何の危険もなくただただ単純作業をするだけなの
ですが金網の外側は、地上から3メートルほどの足場を組みその上
で作業をする危険な作業でした。
作業の効率化を図るため、足場はタイヤのついた移動式の足場を
利用していました。
足場の上は、僕と彼の2人がやっとのれるわずか1畳ほどの狭い
足場です。
この日、もうこの作業に入ってから1週間が経とうとしていていま
した。
移動式の足場(高さ約3メートル)を移動中に事件は起こりました。
地面は常に平らではない。
当たり前の話です。
段差のあるところにさしかかった時のこと、誰もそのことに気が
つかず、この足場は大きく傾き、横倒しに倒れたのである。
上にいた僕と彼は当然のこと、3メートルの高さから投げ出され
ました。
倒れる瞬間、足場の異常に気づきとっさに体重を倒れる方向と
逆に傾け、僕は足場の上に落下しました。
無茶苦茶、痛かった。倒れるときにひざを強打し、すぐに立てない
くらい痛かった。
でも、自分のひざの痛さは
次の瞬間に吹っ飛んだ。
振り向くとそこに彼が柱にしがみつきながら、仰向けになり、大イビキ
をかいて横たわっていた。
「これはまずい」とっさにそう思った。
僕は高校時代からラグビーをしていた関係で、頭を打ってイビキを
かくことの重大さを知っていた。
すぐに彼のところに駆け寄り、こう叫んだ「おい!大丈夫か!」
何の返事もなく、彼はただただ、大きなイビキをかいていた。
道路には見る見るタクシーが渋滞をつくりだした。
彼を道の端に移動しようと、彼の体を抱きかけようとした
その瞬間
彼の後頭部から 大量の血が流れ出した。
その光景を目の当たりにした僕は 体中の毛穴から
雑巾を絞るように汗が噴き出したことを今でも明確に覚えている。
僕はすぐに目の中に入った電話ボックスに駆け込み、緊急連絡
ボタンを押した。震える声で救急車を呼んだ。
どれだけの時間がたったのだろう・・・・・・。
心臓が、張り裂けそうな勢いでなっている。
「どうしよう」「どうしたらいいんだ」「落ち着け、落ち着け」
そう自分に言い聞かせた。
どれだけの時間がたったのだろう・・・・・。
僕は、彼の体から流れでた血の海の中で
ただ彼の手を握りしめ、おろおろするしかなかった。
どれだけの時間がたったのだろう・・・・・。
やっと 遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
しかし、救急車はタクシーの渋滞でなかなか現場へ到着しない。
パトカーが先に来てタクシーをどかす作業をしてくれた。
やっとのことで救急車に彼を乗せこんだ。
平成2年3月14日午前2時15分ごろのことだった。
その日からずっと病院の待合室に泊まり込み、
彼の状態を見守った。
平成3年3月25日午後7時過ぎ
ちょうど夕食に出て帰った時のことだった。
彼は 逝ってしまった。
事故が起きてから一度も意識が戻ることなく・・・・・。
彼との最後の会話は3メートル上にある1畳ほどの足場の上で
「バイト代が入ったらスキーに行きましょうよ」
「遊びもいいけど、また真剣にラグビーやらないか?」
そんな会話でした。
彼が教えてくれたことは
「人は必ず死ぬ」ということ。そして
「いつ死ぬかわからない」ということ。
だから、「日々、精一杯生きるべき」ということ。
2年前、10年務めた会社を退職し 起業しました。
自分が生きた証を残すために。
彼の分まで生きるために。
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