視覚表現について

視覚表現が支持体を必要とするのは、意識と物質の関係を表わしたものだからである。私たちの意識では、直接、他者の意識へ働きかけることはできないし、物質化することもできない。

自身を支持体として心の炎をどんなに熱く燃やしたとしても、指先から火を放つことはできないのだ。そのため視覚表現は、自身の思いを自身の外にある物質、例えば、絵具やキャンバスによって視覚化することで他者の意識に働きかけてきた。絵具が意識を託す物質ならキャンバスはそれを受け止める支持体と言ってよい。意識を託す物質と支持体は分けられるものではなく、一体となって働くものであるが、絵具、もう少し広げて、美術の素材だけが意識を託すのにふさわしく、それを受け止める支持体がキャンバス、こちらも、もう少し広げて、ギャラリーだけがというのは、何か?違和感があった。表現という観点に立てば、意識を託す物質と支持体は何でもいいのではないか。そこで意識を託す物質とそれにふさわしい支持体を模索することになったのだが、究極的なことを言えば、最高の支持体は表現を受け止める誰かの心の世界ということになろうか。

視覚表現は、人の意識、それはある種の界、精神の世界と言ってもよい。そこで生成された内容が、私たちが住まうこの空間を支持体として作品化されることによって現されるわけだが、その材料は全てこの世界にあるのだ。創造と言うよりは、自身の心の世界とこの世界を意識が行ったり戻ったりしながら、そこで選んだ物質の属性との絆を文脈化していくようなものなのではないのか。

このような視点から視覚表現を改めて問い直したいのは、作品の制作において、何も絵が描けなくても、そう技巧に囚われず術に頼らない方法があることや、その発表においても、ギャラリーを必要としない方法があることを意識することで、これから「何か?表現してみたいな」なんて思ってしまった方たちに「アッ、そうか。こんなんでもいいんだ」と合点がいくように、その制作と発表の可能性を広げたいからである。

 

うそぶく太陽が小さく笑った後、薄日は儚く

― 雨の種?・・どんな芽を出すの? ・・もしかして、唇?

つぶやき始めたそのグレーの唇は、貪った青空の分だけ厚くなる。みるみるうちに膨らんで、とうとう天をのみ込んでしまった。

風が痛くなった。

― 泣き出すのかも?

目の形の雲が涙をこらえている。

― 心の中をのぞきにきたの? そんな目をして・・

雨の匂いが髪にふれる。その指はいっそう暗く重くなった。

この度、まだタカユキオバナが駆け出しの頃に制作した作品が、M画廊の三村さんが寄贈して下さったことで、足利市美術館で展示されることになりましたので、ご案内させて頂きます。

気負いだけで表現の右も左も分からない時期だったせいもあって、インスピレーションを頼りにひたすら模索していた・・混沌の森で途方に暮れる、それは今も変わってないか・・笑。

でも何となく、展示されるのは嬉しくて・・見て頂けたらと思います。

 

 

― ア! これって、透明なあの瞳が開くときの香り・・う~ん、声の主と目が合う予感・・クフッ・・ほら、ね。

 

 

ひかり、それは魂の目

視線の先に広がる世界

ふるえる祈り

ほら、心が生まれてる

 

こんな感じを写真にしようと作品を持って三床山に撮影に行ってきました。

小指に結んだ糸が夢の中へと繋がっていて、目覚めた後も胸から離れない。不思議な夢の残り香?意識は晴れることのない混沌の霧の中へと・・何処までもわけ入って行ったのに、眼差しは何も捉えられなくて、もどかしさが胸の瞳を責めたりなんかして・・でも確かに霊脈に触れたこの感じ、私たちは何ひとつ覚えてなくても、存在することで界と界を繋いでいる。

― 夏は心臓の中に隠れたくなるの。んーうん、陽射しを避けるためじゃなくて・・もっともの憂い・・けれど眩くて、たぶん

そこは思春期のかくれが。

好きという感情を、誰かに知られるのがとても恥ずかしくて・・

― 瞳を胸に宿してしまった。・・だからなの、かな?

見つめると

― ドキドキする。

何か熱をおびた命のように

― 鼓動が高鳴るのかも?

そんな思いを秘めた視線に、黄昏れる空

カナカナカナカナ  カナカナカナカナ    カナカナカナカナ・・

悩みの森をこじ開けてしまったかのようにヒグラシが鳴き始めた。

― 涼しげな声に誘われ、浴衣にしたのだけれど・・

せつなくなるのは

― お祭り?

近づいてくる。祭りを呑みこんだ熱の気配。

― アー、お囃子がきこえる。

忍びよる闇匂い。

暖まった空気が水蒸気を呼吸して、重くてのろい気圧の中を、息よりも蒸し暑い風が吹いた。

― 汗のせいなの? 肌が恋しかったりして・・

鼓動から溢れた汗が膨らみ始めたばかりの胸に流れる。小指にぬるい雫・・

子宮の中で聞いていたあの鼓動を

― フフ、思い出したりなんかして・・この音って、前世の胸の瞳からめぐりくる血液の音なのかな?

だとしたら

― ママがパパを見つめた時の・・

気温が体温を超えた。

イヤリングも脈打って・・耳たぶを赤くする。

― 何故かしら?

手鏡で何度もそこを見てしまう。

ヒグラシの声を聞いているここは

― たぶん、思春期のかくれが。

本当は勇気もなく臆病だから

― 心臓に籠もるしかなかったのだけれど・・

好きなひとを探そうとする曖昧な熱が、情熱に変わり

心臓の中から・・ひとりぼっちが見つめてる。そんな瞳に気づいて欲しくて

― 呟くの?

「かくれんぼするひとこのゆびとまれ」

誰にも見つけてもらえずに、皆が帰ったかくれんぼ・・

― 勇気もなく臆病だから・・

黄昏れた熱、ヒグラシの鳴く頃・・

 

薄暗い部屋の中にひとりでいると、近づいてくる地鳴りのような祭りの熱も、

― 胸騒ぎのように聞こえてしまって・・

胸の瞳が

キューン

あおいでいた団扇の手が止まった。青い朝顔を透かした扇の和紙が、黄昏れに浮かんだ胸の瞳を無意識に隠した。

― アー、もう・・

いたたまれなくなって、外へ・・

笛や太鼓が雑踏を連れている。賑やかな熱の川がどんどん人々を呑み込んで、そこやかしこに溢れだす。勢いに乗った不揃いの行進。日頃の憂さも、胸を締め付ける鬱も、地の果てへと追いやって行く。

― 華やかなものって・・どこかに寂しさを抱えているような気がしていたのだけれど・・

着地点のない祭りの混沌は、もっとふくよかでつま先の地平を曖昧にした。

― 凄いな。太陽を背負い神様を担いで、一日じゅう街を練り歩いてきたのに・・疲れを知らないのかしら?

お日様を見送っても激しさを増して・・

「ワッショイ・ワッショイ・ワッショイ・・」

― フフ、頭が浮いたり沈んだり・・何て大きなかけ声なの。

膨れ上った祭りのリズム。

― 首筋もあんなにも脈打って・・

「ワッショイ・ワッショイ・ワッショイ・・」

何時も通夜のようだったこの街がはち切れそうな勢いである。

遠雷からの風は亡霊のような熱を連れて、この喧騒を足早に抜ける。鳥居を潜り、燕のように参道を抜ける。両手を広げた香詩宮を抜け、杜の御神木たちの枝を揺らして、わけもなくはしゃいでいる。

涼しさが、胸の奥の混沌の森で熟れていた香気を刺激する。神代からの・・ぼんやりとした、それでいてどこか懐かしい香り。立ちのぼるもどかしい記憶、初恋?・・初めてのキス?・・それとも・・

― ねえ、風って声に変わったりするの?

鳴きをひそめたヒグラシの余韻の中を

― 何となく歩いてみたくなっちゃった。

薄い闇に包まれた人々の流れ・・影たちをさすらううちに・・どこかであなたを探してる。

山の端が優しく光って月の在処を教えている。

― ウ~ン、見つけられる、かな?

提灯化粧が続く街の灯も幻想的に黄昏れていく。

リーン    リーン リーン・・

― この音、さっきから月の出を誘っているのにね。

熱の残っている空に、風鈴の響きが融ける。

リーン リーン・・

そんな宵待ちの響きをたっぷりと含んだ、ちょいと重い空気の流れが微かに聞こえる杜の奥にも、祭りの気配は届いていた。それは身体を持たぬものたちの内緒ばなしのように、草葉の陰を揺らしていた。

― 眠らない街。今夜は恥ずかしいくらい賑やかになるのかも・・

駅前の商店街から香詩宮まで、まっすぐ続いている提灯ロードを目指して、何処からともなく絶倫の輩が集まってくる。

狐の嫁入りのようにそこだけボーっと明るい。この怪しげな光で、参道脇を埋め尽くした露店が、月よりも一足先に黄色く華やいでいた。醤油やソースの匂いをこもらせ、限りなく陽気な匂いが溢れだしている。

この中に風鈴を商う店があることを確かめるかのように、時おり、遠雷からの風が吹いてくる。その一陣の涼しさは祭りの熱を心地よいものにして、記憶の森へ輝ける花粉を運ぶ。

地に降り注いだ雨は鏡に変換され、そこには鏡の目が捉えた逆さまの世界があった。

― 神秘的な水鏡の目。

反射するその澄んだ鏡面の美しさに、超越的な視線のようなものを感じて

始まりからの途方もない時空を

― この目の中に隠し持っているのかしら?

ポチャリ

― 小石を投げ入れたのは誰?

波紋が広がる。

― 響き返すつもり?

輪を作った波紋は、どこか呪術めいて

― 時を止めたのは誰?

正に天上がろうとするかのようにせりあがったまま

出現の大元に向けて透明な光を屈折させる。

大いなる何かが物質化し、変換と統一を繰り返すのは

― 自身を見るためかしら?

初めて大元を睨み返したその反転の眼差しが

― 光の剣なの?

それは最果てを意識した瞳が放つ象徴的な光

そんな気がして

水鏡に映った自身の瞳を見つめた。

 

蘇るが読みに帰ることなのだとしたら、帰るべき所があり、そこには瀕死の状態から蘇ることができるような何らかの記述があるのかも知れない。

あるいはまた、蘇るが黄泉に帰ることだとしたら、この世とあの世には行き来できる道があり、何か理由があって輪廻を繰り返しているということなのだろうか。

魂の働きは何故か知らされてはいない。その隠された叡智のなかに、蘇ることも・・人が未だ知らない生死に関することが秘められているのに違いない。

春風に吹かれながら、何となくこんなことを考えてしまう。

言水ヘリオさん発行のetc.別冊「日記にゃっき」第93回の付録として

「音歴2024」が発表の機会を頂きました。

機会を与えてくださった言水ヘリオさんに感謝いたします。

 

 

【音歴】

この世界が開闢してどのくらい経ったのだろう?

こんな辺境から開闢の大元に向けて音を焚き、足下に音を埋める。

音を祀り、意識の物質化に思いを巡らすことが日課になっていた。

よく分からないことを意図的に続けるのは、世界開闢から自身に至った今、かつて体もなく、大元の混沌の中にいたことに思いを馳せ、ここで何をしているのかを、世界を開闢した何かに伝えたいからである。

 

【音歴】は、2016年から始めました。日月の音を半紙に記して、天に焚き、地に埋めた記録です。

まずは、五十音を12ミリの水晶玉に一つずつ平仮名で記し、それを三寸の水玉の中に入れ「音ろ」を創りました。これを指で混ぜながら日音として一つ、月音として一つ水晶玉をとり、おみくじを引くように音を名のらせるのですが、転がらないように鏡の中央に小さな穴を開け、その上に置いて、音を祀ります。この二音を日月の順で二枚の半紙に記し、一枚は焚き、一枚は埋めるのです。

音が何らかの感動体であることから推しはかれば、物質化するための炉は心のようなものだったのではないのでしょうか? それは未だ私たちが言葉を持たなかった頃、感動のあまり胸を割っていでた声が、捉えた世界をたった一音にしてしまったことから、音が世界を内包し、抑えきれぬ感動を響き返す心の化身であることを知ったことからの推測なのですが、「音ろ」はそのモデルです。そこから発せられる響き、このことあげしてくる名のりは、意識の物質化といえるのではないでしょうか。一音に秘められた無意識の中に心の震えを内包していると、そう思えたからこそ、音を祀り始めたのだけれど・・もしかするとことあげしてくる名のりは、時空をはかる霊性、そんな命を象徴しているのかも知れません。

このように潜む何かを自発させることが「ミソギ」だと思っているのですが、それは変換と統一を繰り返してきた血の背負っている記憶が、混沌とした多様な働きの融合体であることを示唆させてやみません。

魂に記憶されるのは、音の連続体が時系列でひとつずつイメージや意味を伝えていくこの言葉ではなく、たぶん心の震え、記憶した感動を生涯に渡り融合し続けていくということなのでしょうか。

感動を命に変えることが魂の働きなのだとしたら、私たちの本当の名前は、前世の感動を融合した一音なのかも知れません。

命の絆はこの響愛のなかで、夫婦になった二音の言霊が一音を呼ぶ声として働き、生まれてきた響は、自らを光に変換することで生命に息吹を与え、育まれてきたのでしょうか。

もしかすると音は命の光、風なんかに融けている

― こうなったらいいな~

そんな祈りさえも内包して、言葉はその黎明期において、代々の霊歴を音の連続体として記憶していったのかも知れません。

タカユキオバナ

前世の記憶がないのは、魂に記される記憶は、私たちが使っているこの言葉ではないのでしょう。魂に記憶されるのは、たぶん、心の震え、それは未だ私たちが言葉を持たなかった頃、感動のあまり胸を割っていでた声が、捉えた世界をたった一音にしてしまったことから、音が世界を内包し、抑えきれぬ感動を響き返す心の化身であることを知ったことからの推測なのですが、音の連続体が時系列でひとつずつイメージや意味を伝えていくこの言葉との違いは、記憶した感動を生涯に渡り融合し続けていくということでしょうか。このことが音の行や段の音を育んだのではないかと思っているのですが、時空を内包した感動の音が新たな感動と融合を繰り返すことで、そこに現れる働きの明確な違いから五母音「あいうえお」が生まれ「あ」行に、段はその段の同じ母音の別の側面として、その微妙な働きの違いを、例えば「あ」段なら「あかさたなはまやらわがざだばぱ」と変換していったのではないでしょうか。

感動を命に変えることが魂の働きなのだとしたら、私たちの本当の名前は、前世の感動を融合した一音なのかも知れません。

命の絆はこの響愛のなかで、夫婦になった二音の言霊が一音を呼ぶ声として働き、生まれてきた響は、自らを光に変換することで生命に息吹を与え、育まれてきたのでしょうか。ひょっとすると音は命の光、言葉はその黎明期において、代々の霊歴を音の連続体として記憶していったのかも知れません。