前世の記憶がないのは、魂に記される記憶は、私たちが使っているこの言葉ではないのでしょう。魂に記憶されるのは、たぶん、心の震え、それは未だ私たちが言葉を持たなかった頃、感動のあまり胸を割っていでた声が、捉えた世界をたった一音にしてしまったことから、音が世界を内包し、抑えきれぬ感動を響き返す心の化身であることを知ったことからの推測なのですが、音の連続体が時系列でひとつずつイメージや意味を伝えていくこの言葉との違いは、記憶した感動を生涯に渡り融合し続けていくということでしょうか。このことが音の行や段の音を育んだのではないかと思っているのですが、時空を内包した感動の音が新たな感動と融合を繰り返すことで、そこに現れる働きの明確な違いから五母音「あいうえお」が生まれ「あ」行に、段はその段の同じ母音の別の側面として、その微妙な働きの違いを、例えば「あ」段なら「あかさたなはまやらわがざだばぱ」と変換していったのではないでしょうか。

感動を命に変えることが魂の働きなのだとしたら、私たちの本当の名前は、前世の感動を融合した一音なのかも知れません。

命の絆はこの響愛のなかで、夫婦になった二音の言霊が一音を呼ぶ声として働き、生まれてきた響は、自らを光に変換することで生命に息吹を与え、育まれてきたのでしょうか。ひょっとすると音は命の光、言葉はその黎明期において、代々の霊歴を音の連続体として記憶していったのかも知れません。

 

香詩宮の杜 1

「紅い傘の救世主」

 

 

  一

 

・・雲が流れていく。

― この感じ・・何かしら?

想い出せそうで想い出せない、何か生まれる前の記憶のようなものを抱えて・・ 空を見ていた。

― 何しに来たのかなぁ? ここに・・

うそぶく太陽が小さく笑った後、薄日は儚く

― 雨の種?・・どんな芽を出すの? ・・もしかして、唇?

つぶやき始めたそのグレーの唇は、貪った青空の分だけ厚くなる。みるみるうちに膨らんで、とうとう天をのみ込んでしまった。

風が痛くなった。

― 泣き出すのかも?

目の形の雲が涙をこらえている。

― 心の中をのぞきにきたの? そんな目をして・・

雨の匂いが髪にふれる。その指はいっそう暗く重くなった。

入ってきた重い光のことが知りたくて、リナは見つめるための気圧を胸の底へと沈めた。冷えてきた息を、そう、深く吸い込み、ゆっくりと瞼を閉じた。

― ねえ、かくれんぼ?

感じてる胸の奥深くの暗がりで・・はにかむように佇んでいく透明なせつなさに抱きしめられた瞬間

ポツリ

大粒の雨が葉脈をたたいた。次第に数を増していく小太鼓のような音。紫陽花の飾り花も揺れて涙ぐむ

― ただあなたのことがこんなにも愛しいのに・・

誰に向けられた思いなのだろう?

秘密を聞いてしまった雨は、本降りとなった。

― 受け止めてくれる? 命の働きに気づいて、それをあなたにプレゼントしたいの。

土を叩いた雨が流れに変わる。

香詩宮の杜の隅っこで、ただじっと自身を見つめながら・・雨にうたれる心地よさに浸っていた。

― 何時かこのせつなさの底にあなたのまなざしが届くのかしら? リナの声もあなたのそんなところに届いたらいいのに。

雨で髪が梳かされていく。衣類と肌の間を流れて逆流した雨水が靴から溢れる。体温は地の方へと奪われていった。

― 小さくちいさく、小さくなって蝸牛。

背中を丸めてしゃがみこんだ。

リナは耳を澄まして内なる声を遮断した。

 

どの位たったのだろう。雨音は静かになり景色を蘇らせている。光たちの雫、生まれ変わったかのような世界・・

― 一体何しに来たのかなぁ? ここに。本当に何しに?・・

冷えきった身体に貼り付いた衣類がリナの身体を縛っていた。

 

こんな日のマホは、お気に入りの紅い傘を差して

― 誰? ・・わたしのこと、呼んだ?

雨音を声に変える杜に息づくものたち。

声の主を捜しているような・・その歩みはあどけなく

チャプ、チャプ、チャプ・・

杜の秘密を踏んで行く。

幼い頃から続けてきた雨の日の過ごし方

チャプ、チャプ、チャプ・・

マホは杜が雨を飲む時、その無数の口から溢れる気の流れが形を結ぶのを意識していた。

― ほら、透明なあの瞳が開くときの香り・・声の主と目が合う予感・・クフッ、ねえ。

マホは杜の呼吸にその身を委ね、出現したかと思うと、すぐに消えてしまいそうな道を、導かれるままに歩くのが好きだった。そんな中で、とっておきのスポットが幾つも生まれた。

惹かれる場所には気が済むまで佇み、そこで出会ったものたちに名前を付けては、心ゆくまで親しむのがマホ流なのだが・・

― ‥‥ん? 亀石の前に誰かいる。こんな日に、かくれんぼ?

見つけたときのあの感じが蘇って

― 雨に隠れるなんて・・クフッ、見~っけ。

しゃがみこんでいる後ろ姿がちょうど亀石に隠れているように見えた。

― うずくまってびしょ濡れだけど、大丈夫かしら? あれ〜、リナちゃん?‥かな?

確かめようと歩み寄った先には

― やっぱりリナちゃんだ。どうしたのかな? 傘も差さずに・・

「リナちゃん、傘忘れたの」

恋をしたい年頃のありがちな気分を台無しにするかと思われたその声は、不思議なことにリナの心をときめかせてしまった。

紅い傘の下で人差し指を回転させている仕草、円らな瞳が可愛かったのだ。

今にも泣きだしそうな最低の顔を、最高の笑顔で包まれた気がして、恥ずかしくなったリナは、戸惑いがちに

「ん~うん、雨に濡れたかったの」

― 本音を言っちゃった。ほかに言いようがないもの・・ね。

首を横にふる仕草のなかにも思い悩んでいるような気持ちが見てとれた。

西の空がうっすらと白んで軽くなった雲の上にお日様が腰掛けている。小鳥たちのさえずりも戻ってきた。じきに雨は止むだろう。

「リナちゃんのそういうところ、嫌いじゃないよ」

愛らしく笑うマホ。その仕草は

― 不思議だな。さっきまで誰とも会いたくなかったのに。涙を流した後のような気持ち・・

リナの好みの壺いっぱいに広がり満たしていく。もし他の人だったら鬱とうしくって逃げ出していたに違いない。

「男の人が持つような大きな傘なのに、マホちゃんのは、紅いんだね」

ピンクのブーツから伸びるマホの白い足は、萌葱色のパンツの中に隠れ、紅い傘を透過した光が白いブラウスに桜色の影を作っている。

― 身体の割には大きすぎてバランスが悪いくらい。でもマホちゃんが差すと、とっても可愛く見える。いいなぁ〜。

「マホちゃん、その傘、何処で買ったの」

立ち上がるとリナの細い顎から

ポタポタポタ・・

雫が落ちた。

「欲しいの? 家すぐそこだから貸してあげてもいいけど、ここまで濡れちゃったら意味ないね。今度買いに行く? アッそうだ、家によってかない? 風邪ひくといけないし。ん~うん、無理矢理でも連れこんじゃうんだ。着替えならわたしのが、あるもん」

そう言い放って素速くリナの手を握ったマホは、魚を釣り上げた時のように得意げに笑ったまでは良かったのだけれど・・

― なんて冷たいの。完全に冷えきっちゃってるじゃないの。真夏なのに・・

たくさん人がいるなかで、実際に親しく関われるのはそう多くない。マホは以前から惹かれていたお気に入りと過ごせる初めての機会を逃したくなかったのだ。

「いいの?」

― すごく嬉しいけれど、迷惑ではないかしら?

尻込みして眉をひそめたリナの前で花をつけ始めた一本の百日紅が幹に滝を作っていた。低い土地を川にして傍らの池に勢いよく呑み込まれていく。

「百日紅の白い蛇」

「え?」

「わたし、これを見に来たの」

二人は小学校からのクラスメイトであったのにもかかわらず、対話したのはこの時が初めてだった。挨拶ぐらいはするもののリナもマホもクラスメイトと話したことなど殆どなかった。クラスにうち解けないもの同士、何となく気になっていたのに・・二人とも一人で居ることが好きだったから別に話しかけることもなかったのだ。

「深紅の花びらをわって流れ落ちるひとすじの白い蛇。う~ん、満開にはちょっと早いけど。この時期の強い雨の時だけしか現れない滝だから・・それに強い雨でも雷の時は怖いしね」

「マホちゃんって詩を書くの?」

― 神域だからなのかなぁ。確かにここの樹木や石にはちょっと風変わりなものが多いと思ってたけど・・マホちゃんに言われるまで百日紅にこんな秘密があるなんて気づかなかった。それにしてもほんとに白い蛇に見える。不思議・・

「リナちゃんとこのその石ね、亀の頭みたいでしょ。ほら、地盛りしてあるところがちょうど甲羅で」

「うん、ほんとだね。とっても大きな亀さんだこと」

「百日紅の白い蛇を最初に目撃するのはこの亀さんなの。だって、ず〜っと見とれてるんだもん。この視線に耐えかねてね、逃げ出す機会を窺っていた蛇は、雨に乗って池に身を潜めるの。相当惚れてるのよね、亀さん。でもね、悲しいことに気づいてないのよ。白い蛇が百日紅の化身だってことに」

そう言い放ってウインクして笑うマホは、ここで感じ取ったことを膨らませては、それを逸話にしていた。

時おり傘を回転させる語り部の仕草にリナの目はハートに輝いている。

マホもまた

― リナちゃんだったらこういう話しても大丈夫みたい。聞いてくれそうな気がする。

急接近の予感に弾んだ気持ちが肌をほてらせ頬が紅く潤んでいた。

『ずーっと友達になりたかったの』

二人は同時に言った。そして顔を見合わせ笑った。

遠くで遮断機の鳴る音がする。暗い雲を半分残して日射しが蝉時雨を連れて戻ってきた。雨の線が空の青さに輝いて見える。天気雨は煌めきを増して立ち去ろうとしていた。

紅い傘の中の二人は繋いだ手を振りながら歩幅も仲良く歩き始めた。

マホの家は香詩宮神社の境内にあった。香詩宮宮司のひとり娘である。

「ちょっと待ってて」

傘をたたんだマホの姿が濡れた石畳に反射して消えると、後には青空が映って雲が流れていく。風が蝉時雨の杜を爽やかに通り抜けた。

「マホちゃんちここだったんだ」

― 何度も来てるのに何で会わなかったのかなぁ? そう言えばマホちゃんの名字、香詩宮だもんね。

リナの最も好きな場所からさほど遠くない石段を下って降りたところの奥まった一角だった。軒の張り出しがかなり深い。

「リナちゃん、中に入って。タオル取ってくるね」

風呂のスイッチを入れ、何枚かタオルを抱えて戻って来ると、リナから滴り落ちる雨水で玄関にはもう小さな水たまりができていた。

「お風呂すぐに沸くからね。脱いだもの、お洗濯しちゃおう。一時間ぐらいで乾くからね。帰りにはまた着て帰れるよ。それまでこれに着替えて」

そう言って、はにかむように手渡された木綿には薄い花柄の刺繍があった。

― アッ、ピンク色だね。マホちゃんのパジャマ、これを着てどんな夢を見てるのかな?初めてなのに至れり尽くせり。

「ありがとう。マホちゃん」

「お風呂から上がったら、これを聴こう」

セリパト・メサイの新曲「太陽の涙」の端っこを両手でつまんで垂直につきだしている。

ちょっと首を傾げその間からリナをのぞき込むようにマホは笑った。

― こんなに人なつこいのにどうしてなの?

リナには学校とは全く別人のマホがそこにいるように思えた。

二人がクラスにうち解けないのは虐められているからというわけではなかった。内気すぎてうち解けるきっかけをどうしたらよいのか分からなかったのである。

「お風呂使い方分かるよね。温度設定はこれね」

「うん」

 

目を閉じてシャワーを背中に浴びると

― フワーッ・・

体温が戻ってくる気がした。湯気に映った胸のふくらみが桜色に色づく。リナは言いようのない安堵感に包まれていった。

白い小部屋の底から天に向かって細長く伸びている鏡。その傍らにある色とりどりのシャンプーは飛べない鶏のように太っている。

― ウフフ、不思議な鳥たち。マホちゃんの趣味なのかな〜。それともおかあさんのかな〜。頭なでなで、プシュッ、嘴から泡ヮ、フフ。いい香り。

手のひらいっぱいの泡を乳首の上に載せお臍の方へと伸ばしていく。体中泡だらけになると鏡に映った姿に魔法を掛けるような仕草をした。

― どうすれば自身の働きに気づけるのかしら?

しばらく鏡を見つめていたリナは両手で髪をかき上げ顔を洗った。

― こんな日になるなんて・・不思議。

自意識はどんな些細な理不尽も見逃さない。そのくせ、好みでない配慮には鬱とうしさを感じてしまう。

― もし声を掛けたのがマホちゃんじゃなかったら。知らない男の人だったら・・

竦んでしまったかも知れない手足を湯船の中いっぱいにゆったりと伸ばして、リナはマホの回転させていた指先を思い出していた。

― 大きな紅い傘を担いでトンボを捕まえるような仕草のマホちゃん。リナはトンボじゃないよ。ウフフ。

 

 

 

  二

 

ミンミン蝉は一頻り鳴いた後、近くの木へ飛び移って一呼吸すると、またそこで鳴き始めた。

雨上がりの太陽が

キラキラ・・

湿った地面を照り返している。空へ帰ろうとする白い大気に、蝉しぐれの熱が膨らみを与える。涼しくなったのは束の間、また何時もの蒸し暑さが戻ってきた。

― リナちゃんの赤い靴、びしょ濡れだね。

軒先にあった水道の蛇口をひねると、勢い余ってはねた水がマホの長い髪に小さな真珠を作った。その中で輝く真夏の太陽は瞬く間に自らを消し去ってしまう。

マホは濯ぎ洗った靴をまだ陽が残っている軒下に干した。

雨宿りをしていたのか?

シュルルルル

近くにいたカナヘビが蝉の抜け殻がある山桃の根元へ一目散に走っていく。

花の香りがマホの汗ばんだ身体から仄かに香った。

― リナちゃん、長いことうずくまっていたみたいだけれど、何か嫌なことでもあったのかな。それにしても身体冷たかったな。

マホはリナの手を取った時の感触が蘇って、自身のその掴んだ右手に視線をおとした。

「ニャン、ニャン」

茂みの奥から近づいてくる。

「茶虎ン、おいで。何処いってたの?」

しっぽを立てた若い虎猫がすり寄ってきた。

「濡れてない? 何処かで雨宿りしてたの?」

「ニャン、ニャン」

おねだりなのか足にまとわりつく。

「ウフ、茶虎ンたら」

脇の下に手を回し抱き上げると力を抜いた猫の身体はダラ~ンと伸びた。頭におでこを擦り合わせたあと、優しく胸に包んだ。野良なのによく懐いていた。たまに貰えるお刺身に惚れていたのかも知れない。

地面に降ろしてもしつこくまとわりついてくる。ニャンニャンと媚びる鳴き声は、餌が貰えるまで治まりそうもなかった。

― 仕方ないなぁ〜。冷蔵庫に何かあったかな?

「茶虎ン。ちょっと待っててね」

冷蔵庫の扉を開けると顔がひんやりとして涼しい。竹輪を一本取り出して閉めてしまうには惜しい気がして手内輪で扇いだ。

― ああ涼しい。気持ちいいな。リナちゃんと一緒に何飲もうかなぁ〜。シュワ〜っとサイダーにしようかな? それとも・・

扉を閉めながらちらっとオレンジジュースを見た。

「茶虎ン。茶虎ン」

竹輪をちぎって鼻につけるとニャンニャンという声はひときわ甲高くなった。

 

香詩宮の家は古く、祖父の代に立てられた和風建築なのだが、水回りだけは現代風に改築して便宜を図っていた。

台所に戻ったマホは手を洗いお茶の用意を始めた。リナをもてなすためにコップはおも弛みのある花柄に決めた。まったりとした姿に鮮やかな花びらがくっきりと透明な空間に浮かんでいる。それを色あせたコバルト色の布の上にゆっくり載せると静かに微笑んだ。

― コップとコースターは決まったけど、リナちゃんって何が好きなのかな? とりあえずお風呂上がりだから、これにサイダーをシュワ〜っとそそいで、レモンは? あ、きらしてる。まあいいか。そのあと、水羊羹にしようかしら?

受け皿を取ろうと手を伸ばした食器戸棚のガラスに通りがかった母、沙織の姿が映った。

「あっ、おかあさん。ちょうど良かった。リナちゃん紹介するね」

「お友だち?」

― マホが友だちを連れてくるなんて初めてね。どんな子かしら?

「今お風呂はいってるから、でたらね。リナちゃん、雨でずぶ濡れだったの」

「あっ、それで玄関に水たまりができてたのね」

― リナちゃんって子、マホのよき友だちになってくれればいいのだけれど・・

マホが用意したお盆に目をおとして、沙織はこの年までひとり遊びしかしてこなかった娘のことを案じていた。

「何飲むの? かあさん今からお夕飯作るから食べてってもらったら・・。それから電話だけはちゃんとしといてよ。あちらのご両親が心配するといけないから」

「ねぇ、リナちゃん泊まってかないかな。明日、休みだし」

「それでもいいけど、リナちゃんさえ良ければね」

夏休み直前の週末に親しくなるということがマホの胸をいっそうわくわくさせた。

 

浴室からでるとリナは床に反射した自身の影をリズムよく踏んで近づいてきた。

「マホちゃん、お風呂、ありがとう。気持ち良かった」

生まれて初めて友達ができた喜びがリナの声を明るくさせていた。失いかけていた何もかもが蘇ってくるような気がした。勇気が身体の芯から湧き上がってくるのを感じていた。

― マホちゃんがいれば百人力だね。

屋根を支える黒光りのする太い柱にリナのシルエットが浮かび上がっている。薄暗い廊下なのに、風呂上がりのリナの体温によってそこだけが仄かに明るい。汗が香るような熱のこもった身体であることを辺りに感じさせた。

「リナちゃん、わたしのおかあさん」

「初めまして、リナです。お風呂、頂いちゃいました。クフッ」

― ああ、境内で何度か見かけたことがある、香詩宮によくお参りに来てる子ね。確かマホと同じクラスだったような気がするけど・・

授業参観の教室が頭をよぎった。その授業でとりわけ目立っていたわけでもないリナを沙織が意識していたのは、香詩宮の杜で偶然見かけたひとりで過ごしているリナの様子に、年恰好もよく似ているひとり遊びの好きな自分の娘をかさねていたからだった。

「いらっしゃい、リナちゃん。雨、大変だったみたいね」

― マホちゃんの眼差しとそっくり。声もよく似てるなぁ~。

「マホちゃんが助けてくれたの」

「マホはね、雨の日が好きなのよ。ちょっと変わってるけど・・雨の日に限ってお散歩するの。仲良くしてね」

「はい、こちらこそです」

― どうりで会わなかったわけだよね。雨の日に香詩宮に来ること少ないもの。

「ぴったりだね、そのパジャマ」

「うん、ありがとう」

リナは柱に映ったシルエットで確かめるような仕草をした。

「のど渇いたでしょう」

サイダーをお盆に乗せたマホはリナを誘い部屋へ行こうとした。それに気づいた沙織が声をかけた。

「リナちゃん、マホのこと、よろしくね。今日は晩ご飯食べてってね。パジャマに着替えたことだし、泊まってってもいいのよ」

「そうしなよ。ね、泊まってって。はい、電話」

「嬉しいけど、リナ、友だちいなかったからお泊まり、初めてなの」

― どうやら、思った通り・・この子もひとり遊びのくちなのね。

「安心して、内のマホもそうだから、嬉しいのはいっしょなの。遠慮しなくていいのよ」

 

「もしもし荻野です」

「あ!ママ、今日マホちゃんちに泊めてもらうけど、い~い?」

「いいけど、ご迷惑にならないかしら」

「あのね。お風呂、戴いちゃったの。雨にうたれていたらね、紅い傘のマホちゃんが来て、助けてもらったの」

「リナ、ちゃんとお礼言った? ちょっとマホちゃんのおかあさんと電話かわってくれる」

「電話かわってって」

「もしもし。電話かわりました。マホの母です」

「すいません。内のリナがおじゃましちゃって。何かお風呂まで戴いたそうで、ありがとうございます」

「リナちゃん、香詩宮で雨に降られちゃったみたいなの。ちょうど内のマホがそこを通りかかって、雨宿りにお誘いした次第です。二人とも嬉しそうで何か意気投合してるみたいですよ」

「そうですか。ご迷惑になりませんか?」

「あんなに嬉しそうなんですもの。ご安心くださいな。娘たちの笑顔を見るのは何よりもこちらの保養になります」

「本当に勇気づけてくださいますね。リナのことよろしくお願いします。今度、内にもマホちゃん遊びに来させてくださいね」

「ぜひ、お近づきになりたいですわ」

 

 

 

  三

 

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勢いよく栓が飛んだ。というより意図的にやったのだ。マホはこの音が聞きたくて、何時も栓抜きに勢いをつける。瓶の口から白い霧が立つ。グラスの中で小さな泡が弾ける。サイダーの香りが部屋いっぱいに広がった。

― 結構なお手前で。ウフ・・

マホはひとりうけしてクスッと笑ったあと急に真顔になり、抹茶を差し出すかのように厳かな仕草でリナを見つめた。

「どうぞ」

グラスを含むと泡の甘い痛みがここちよく口いっぱいに広がっていく。のどで弾け冷たい。爽やかな流れが風よりも重く身体を通りぬけた。

「ありがとう。よく冷えてるね。おいしい」

リナの視線が部屋の壁伝いにゆっくりと回転してゆく。マホの本棚には画集が多いことに気づいた。その中に荻野閏のカタログがあった。リナはそれを抜き出しマホの膝の上に載せた。

「パパなの」

荻野閏といえば特殊な繊維にヘリウムガスを注入し、糸を空中に浮かすことで有名になった作家である。それを織り込んだ布は空飛ぶ絨毯のように見えた。傍を通った人が立てる空気の流れによって形がさまざまに変化した。

マホは両親に連れられ佐野市の三床山美術館で昨年の夏休みに見てきたのである。カタログはその時のものだった。

マホは慌ててそのカタログを持って夕飯の用意をしている沙織のもとへ駆けていった。

「おかあさん。ねぇ、聞いて、聞いて。リナちゃんのおとうさん荻野閏さんなんだって。ほら去年の夏休みに美術館に行ったでしょ。このカタログ」

「ほんと、すてきね」

それだけ言うと慌ててリナのもとへ戻っていった。

「不思議なお部屋だったよ。照明に反射して輝く糸たちが霊的な感じで浮遊してるの。まるで生きてるみたいに・・私の気配を察して」

「マホちゃん美術、好きなの?」

「大好きよ。展覧会を観に行くのが趣味なの。彫刻とか絵画もいいけど、最近のジャンルを越えた新しい表現が特にね。ほら、このジャケットだって変わってるって思わない?」

お風呂から上がったら聴く予定だったセリパト・メサイの新曲「太陽の涙」をあらためて見せられた。

太陽に向かって突き立てられた無数の剣には仏様の名前が刻まれていた。立体的な剣曼陀羅のようにも見える。

「聴いてみようね」

そう言ってCDをセットした。

小さな水滴の音が反響している。しだいにシンバルへと変わって音が大きくなっていく。波がうち寄せるように強弱が繰り返された後、コーランが流れた。ガラスが割れる音が混じりだし、電波ジャックされたかのようにリードギターとベースのデユィオに変わっていく。ドラムが入ると音響は最高潮に盛り上がりをみせ、ソプラノとバスのボイスが官能的に激しく対話してゆくなか、般若心経が雑音のように混じる。足音が走り出し、ピヤノが絡んでくる頃にはバラードになっていた。

「リナちゃん、何か嫌なことでもあったの? さっきさぁ、雨の中でずーっとうずくまってたみたいだけど」

マホはリナの悩みを自分のことのように思い親身になりたかった。話を聞いてあげることぐらいしかできないことは分かっていたのだけれど、それでも少しでも癒せたらいいのにと思っていた。

「リナね、この世界に何しに来たのか分からないの」

「えっ」

― リナちゃんって生まれる前の記憶を思い出そうとしているのかしら?

まったく予想もしなかった言葉にマホの胸は重くなった。瞼を閉じて小さく息を吐くと、ゆっくり開いた瞳で心の底からリナを見つめた。

「リナちゃん、そんなこと考えてたの。・・あの雨の中で?」

「うん」

「あまり参考にならないかもしれないけれど、わたしね、雨が降ると誰かに呼ばれているような気がして出かけるの。雨の音がね、マホって、アッ、わたしを呼んでる。それで声のする方へ行ってみたくなるの。でもね、その声がどこから聞こえてくるのか分からないの。さまよっているうちに気がつくとね。杜のみんなとお話ししてたの。小さい頃からずーっとそうだったの。この世界に何しに来たのかは分からないけれど、何となくこの世界から呼び出されたような気がする」

― ・・この世界がマホちゃんを呼んだのか。リナも誰かに呼ばれたのかな? リナの場合はきっとパパとママだね。

思わずクフっと微笑んだリナは他の答えを探す気など起こらなかった。

― パパとママはリナを呼び合うことで愛を育んだのかしら? ・・ポ~。ア~ン、リナは呼びだされてしまった。ウフッ。

自分のことが閏と栞を強く結びつけておくための絆ように思えた。呼び合うことが愛と深く関係しているのだと、リナはその時思った。同時に呼び合う声の秘密に触れたような気がした。声が生まれてきた訳が求愛にあるように思われたのだ。

― 世界からお呼びがかかるなんて・・

「マホちゃんってきっとこの世界から愛されてるんだね」

「わたしね、杜のみんなのことが大好きなの。すごく不思議なんだけどリナちゃん。杜をさまよっているとね。気になるところがあって自然に足が止まるの。目が合っちゃうから、あなたが呼んだの? って、声をかけるの。マホだよ。あなたは? ってね。それで何となく名前を感じるから、その名前で呼ぶとね。それまでとは全く違ってそのものが迫ってくるの。樹や石とお話しするきっかけはね。名前を付けることからなの」

マホにとって名付けるということは、見つめ合ったそのものを感じることに他ならなかった。そのものが放っている命の光はマホの中で音の霊性に変わった。幾つかの音が心の声として響きを結んで行く。それはそのものの働きが身体の中に入ってきたように感じられた。

「未だ名前のなかった杜の精霊がマホちゃんを呼びとめたんだね」

名のないものが名を得ようとしてマホを頼りにしているのだとリナは思った。確かにそういう感受性をマホは備えていたし、何かの眼差しを感じると自然に名前が浮かんできた。

体を持たぬ霊性と響き合うとマホの身体は痺れ体温を下げた。霊性によってもたらされる心の震えが身体を痺れさせるのだろうか。血圧や脈拍も変化した。こうした体験はマホにとって嫌なことではなかった。むしろ蒸し暑い夏の神秘体験は寒気がはしる心地よいものだった。鳥肌が立つ冷んやり感は、けして悪くはなかった。

霊体の容れものとしての自身の内に相手の体の輪郭を意識すると、マホは命の光が結んだこの象の震えに自身の震えを重ねた。震えは音に変わり、そのものの名のりとなった。マホは声に出してこの名前を呼んで微笑みを返した。その澄んだ笑顔で話しかける仕草は、はたから見るとひとり芝居のようにも見えた。

マホが雨の日を選んだのはこのことを人に見られたくなかったのだ。他の人には見えない世界なのだということをマホは知っていたから・・

「リナちゃん。人でないものと目が合っちゃうってことある?」

「気配を感じたりはするけど、目が合っちゃうってことはないみたい」

「やっぱり、わたしだけなんだ。変かなぁ?」

「エヘヘ。マホちゃんの変なとこが大好き。リナね。何度もここに来てるけれど、百日紅にあんな秘密があることも、あの石に亀石って名前があることも知らなかったの」

「百日紅の白い蛇も亀石も全部わたしが名付けたんだもの知らなくて当然だよ」

マホにとって名前はその言葉の起源でもあった。音が響きあい連続するなかで意識と働きの関係が言葉の意味へと変わっていった。

名付けることでその名の通り働き出すことをマホは経験から知った。

名のないものに名を与えてきたことから、知らず知らずのうちに香詩宮の杜をマホの杜として育んでいた。マホが想像した内なる生活は現実として働き始め、もはやマホを呼んでいたのはマホが名付けた世界そのものだった。

「他にもいっぱいあるの」

「ア~ン。いいなぁ~。香詩宮の杜はマホちゃんの杜」

マホの想像上の風景から風が吹いてくるような気がしてリナは心をときめかせた。

― 感じる。マホちゃんと響き合ってる・・

神秘の瞳たちが目を覚ましたマホの杜を実際にさまよい、リナはそこで過ごしてみたくなった。

「ねえ。教えて」

「香詩宮の杜のこと?」

「うん。マホちゃんの杜を歩いてみたいの」

― リナちゃん、怖がらないかな?

「いいけど・・霊とか大丈夫? 」

「大丈夫じゃあな~い・・でも、マホちゃんといっしょなら」

「怖くない?」

「怖いよ・・クフッ」

「・・そうだね。まあ・・大丈夫か」

「だからねぇ。今度案内して。リナ、マホちゃんの杜のこともっと知るために・・紅い傘、買うから」

紅い傘はマホの世界観を象徴するものとしてリナの心を虜にしていた。

― リナちゃん紅い傘、気に入ったみたいね。あの大きさのものって、殆ど黒しかないもんね。

「うん、いいよ。紅い傘、買いに行こうね。毎回ずぶ濡れじゃ困るもの」

笑った二人の顔がつぶれていた。

こんなお喋りが思春期の感受性を加速させていくのかも知れない。好奇心が旺盛になった瞳たちは、心のずーっと奥の方に広がる混沌の森へと、何処までもわけ入っていけるようなそんな気がした。

未知なる世界も二人でなら臆病風に吹かれることもないとそう思えた。

霊性に触れる予感のようなものにも敏感になった。

― ん~・・命の意味か・・?

リナが雨にうたれていたのは、命の意味を問い始めたからなのだろうとマホは思った。

「わたし、この世界に何しに来たのかなんて考えたこともなかった」

「普通、そういうこと、あまり考えない? のかなぁ」

― あっ、そうだ。マホちゃんに聞いてみたいことがあったんだ。

「あのね、命に優劣があると思う?」

「そんなの、あるわけないじゃん」

「ね。パパも言ってたけど、命に優劣はないって。働きの違いなんだって。だから、リナ、自分の働きに気づきたかったの」

― それって自分らしく生きようってことなのかなぁ? 本当にそんなこと思うんだ・・

「杜のあの世界って、みんながそれぞれの働きを出し合って作ってるの。ウフッ・・香るように響き合ってね」

生命はあるがままの自身を現わして命長らえている。杜はその多様性で調和していく。マホがひとり遊びの杜で気づいたことだった。そして私たちもそうあるべきだとマホは思っていた。

― どうしてありのままで生きられないのかしら? みんなで作っている社会なのに・・何で格差なんかが生まれてくるの?・・リナちゃんの悩みって、意外といろんなことを考えさせるのね。

「でもね、リナ自分のことがよく分からないの」

肝心の自分のことが分からないのではお話にならない。マホは自身にも問うてみた。

― わたしの働きって何かしら?

そして明確な答えを持っていないことに気づいた。もどかしさが身体の中で圧を持つ。

― リナちゃんもこんな感じなのかな?

「わたしだって自分のこと、よく分かんないよ」

「気づけると思う? マホちゃん」

「分かんない。でもどうしてそんなふうに考えるようになったの?」

― んー、どうして? かな・・

「みんなみたいにね。うまく関われないから・・なのかな?」

「お友だちができないってこと?」

あのね。最初はね。休み時間に楽しそうに話してるクラスの子たちを見ていて、どうしたらあんな風になれるのかしら? ・・なんて思ってみたりしてたの。でもね。話してることが聞こえてきても、興味わかなかったの。この輪の中に入ってもだめ・・楽しくないや。多分、話を合わせるのが辛くなるだけ・・そう思うとね、本当に関わりたいと思ってるのかなって。一人でいるの好きだし、リナって本当は誰とも関わりたくないのじゃないのかな。クラスの子と関わるより香詩宮の甘い風を感じたり、雨の匂いの中に隠れたりすることの方が落ち着くの。それでもね。何かみんなのためになりたいなって何処かで思ってる自分がいるの。リナにできることって何かあるのかな? リナの働きって何かしら? 本当は何がしたくてここにいるの? ・・って胸の奥深くで何時も感じようとしてたの」

― ウㇷ、可愛い。リナちゃんっていい子なんだ。

何かいい。リナちゃんのそういうところ。リナちゃんってさ~。クラスで一人で居ることが多かったでしょう。わたしもそうだったから何時も気になってたの。わたしね。怖かったの。クラスの子と話すの。ラインとかやらないし、みんなの話題にまったくついていけないの。話し始めたらきっと浮いちゃうと思う。リナちゃんぐらいだよ。あんな話してもひかないのは・・」

「あのね。リナはマホちゃんの杜の話が大好きだよ。香詩宮の申し子で、杜の語り部。そして何よりも今日のマホちゃんはリナの救世主だよ。今日は紅い傘の救世主が来たんだ。ウフッ。ほんとはね、ちょっとびっくりしたの。マホちゃんの仕草の一つひとつが可愛くって、学校とまるで違うんだもの」

― 何故かしら。胸がどきどきする。

嬉しくて

ポ〜

頬が紅くなったマホは、何かすてきなことが始まる予感に耳朶が火照ってくる気がした。

― ウフ、もうすぐ夏休み。わたしの杜にリナちゃんを招待しよう。リナちゃんだったら大丈夫。見えるかも知れないし、みんなのこと分かってもらえたら、今年の夏は楽しくなるよ。きっと・・

「ヒトの、人の友だちはリナちゃんが初めてなの。杜には、ね。いっぱいいるんだけど・・」

「人じゃないの?」

「うん」

リナは棚の上にあるたくさんのカラスの羽に目がとまった。コップに活けてある漆黒のその羽たちには深い緑色の光沢があった。

― なんて立派な羽かしら。リナも何枚か持ってるけど、こっちの方がちょっと大きいかな・・

その隣には松ぼっくりやら栃のみ、椿やどんぐりなどの木の実が青みがかった透明な器に盛られている。赤白黄青緑紫橙色のハンカチを真四角にたたんだ上には、一見何処にでもあるような小石が置かれていた。杉の花や蓮のみ、よく分からない葉っぱのような骨までもあった。

これが杜からのプレゼントであることは言うまでもなかった。

リナもまた似たようなものを持っていた。

「人じゃないって? それじゃ妖精さんなんかもいたりして」

「雨の杜の中にいるとね。色々な音が声のように聞こえてきて、元々、樹や石に名前を付けたことによって生まれた友だちだからね。その声はわたしの妄想かも知れないの。でもね。命の気配が感じられるような処にはね。瞳を持つものが現れるから、その時、閃いた名前で呼んでみるの。妖精さんではないけれど、霊的な身体を持つものに話しかけるのはよくあることなの」

「マホちゃん、怖くないの?」

「怖くないよ。杜の精霊たちは雨と響き合って優しく包んでくれるもの」

「光や風の精霊さんが雨と響き合うのって・・何かすてき。リナも包まれた~い」

― そういえば、入ってきた重い光、あれは何だったのかしら?

空き家や路地裏でたまに見かける霊体とは明らかに違っていた。地面の露出が少ない建物やアスファルトで覆われてしまった街の空間からは、野生の地力が失われるのかも知れない。神域と言うことで手つかずの自然が残された香詩宮の杜。この地力に息づくものたち、自生する植物も多様性に満ちていた。香詩宮の杜は蓮沼を含めるとかなりの広さがあった。

「リナもマホちゃんが来る前にね。受け止めてくれる? なんって聞いてみたりしてたの」

「リナちゃんも、雨の中で杜とお話ししてたの?」

「うん。でも、マホちゃんみたいにリナ、はっきりしてないの。何かもっと漠然と杜全体と向き合っていたような気がする」

少し小首をかしげて言葉を詰まらせたリナは

「んーうん。違うの? あれはたぶん・・リナ自身だったのかも知れない」

と言い直した。

「それで受け止めてくれたの?」

「雨、ちょっと痛かったけど、何にも言わずにただ髪を梳かし続けてくれたの。それに何よりも・・クフッ、紅い傘の救世主、マホちゃんを連れてきてくれたよ」

 

 

こんな日は、お気に入りの紅い傘を差して

― 誰? ・・わたくしのこと、呼んだ?

雨音を声に変える杜に息づくものたち。

声の主を捜しているような・・その歩みはあどけなく

チャプ、チャプ、チャプ・・

杜の秘密を踏んで行く。

幼い頃から続けてきた雨の日の過ごし方

チャプ、チャプ、チャプ・・

杜が雨を飲む時、その無数の口から溢れる気の流れが形を結ぶのを意識していた。透明なあの瞳が開くときの香り・・声の主と目が合う予感・・杜の呼吸にその身を委ね、出現したかと思うと、すぐに消えてしまいそうな道を、導かれるままに歩くのが好きだった。

チャプ、チャプ、チャプ・・チャプ、チャプ、チャプ・・

 

『あてずっぽうの闇』

 

「何?これ」

サイコロが二つ。ひとつは六面が赤、白、黄、青、緑、黒に彩色されている。もうひとつは母音のA(あ),I(い)、U(う),E(え),O(お)、それにN(ん)が六面に記されていた。

「こんなふうに振るとね。ほら、緑とAがでた。緑のA段の音って、何だと思う?」

「緑のA段?」

「そうよ。あかさたなはまやらわがざだばぱ、の・・どれかな?」

「じゃあ、な」

サイコロの彩色は光を、母音は響きを表している。光と響きを併せ持つ象徴的な音をイメージすることで、言葉が生まれる水際を体験させたかった。

「今度はあなたがサイコロを振ってみて」

赤とOがでた。

これを音に変換するためには、直感を働かせる意外に手立てがあるまい。「何故その色をその音にしたの?」と尋ねられても「ただ何となく」としか答えようがない。答えを導きだしたからといって、それが正しいとも間違っているともいえないのだ。もどかしくはあっても、これができるということは、どういうことなのだろう? こういうブラックボックスをこじ開けたとして、そこに横たわっているあてずっぽうの闇は、果たして何かとても大切なことなのだろうか?

無意識世界の働きの中から、何らかの働きが自ら名のりをあげること、例えば音のコトアゲ、それが驚きのあまり声を発してしまうようなことだと考えれば、自然の光景に感動するたびに、その心の化身として喚声を発してきた膨大な音の記憶が、その感動と共に、私たちの心の中には潜在化されているのかも知れない。

音に変換するということは、たとえそれがあてずっぽうであったとしても、この潜在化された感動の一音を、心の奥底から呼び出すことなのかも知れない。

そして直感を働かせるしか手立てがないというのであれば・・

音歴 ― 音の名のり

ひふみよいむなやこともちろらねしきるゆゐつわぬそをたはくめかうおゑにさりへてのますあせえほれけ

いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうゐのおくやまけふこえてあさきゆめみしゑひもせすん

ここで過ごすということを象徴的に表すとしたら、一寸先がまるで清音のくじを引いたかのように現れるひふみの祝詞やいろは歌のようなものになるのではないだろうか。

開かれゆく界が清音を並べ替えることによって表され、音が言葉とは別の使われ方をしている。

前世の記憶がないことから鑑みると、魂に書き込まれるのは自意識の記憶ではなく、こうした呪音の連続体なのかもしれない。 

一寸先のくじを引くということは、得体の知れない何かに名を尋ねるようなことではないのか。

得体の知れない何かは、名のることで界を開き、正体を明かす。

正体が明かされてもなお、計り知れない音の名のり、感動のあまり世界を内包してきたという経緯があったとしても、働きを感じとる力のないものにとってそれは、無に等しいのかも知れない。

自身が抱えている卑近なものたちから発せられる名のり、それが尊く美しいことに気づけないまま、見過ごしてしまうことが何と多いことか。

神秘的な意識の体、そう思えたからこそ、その熱を捉えた蛹がときどき震えるのが嬉しくて混沌の森をさまよっているのかもしれない。

孵化した言葉たちが通う無意識のすみか、光の温もり、この暖かさ、魂の空は体温につつまれている。

くじを引くということは、得体の知れない何かに名を尋ねるようなことではないのか。

得体の知れない何かは、名のることで働きを限定させ正体を明かす。

引かれたくじを言水ヘリオさんから委ねられたとき、自身の本当の名を尋ねられたような気持ちになった。(もっとも、送られてきたものがくじなのか?定かではないのだが・・そう思い込んでしまったのだから、しかたあるまい)

働きがよく分からないくじの名のりを、無理やり読み解こうとすれば、その働きは自意識によって限定される。くじの体に自意識が忍び込み、くじの名のりをその身に纏ってしまう。

意識と物質の神秘的な関係を見つめる手立てが、またひとつここにあると、そう思った。

 

 

音歴

この世界が開闢してどのくらい経ったのだろう?

こんな辺境から開闢の大元に向けて音を焚き、足下に音を埋める。

音を祀り、意識の物質化に思いを巡らすことが日課になっていた。

音が感動体であることから推しはかれば、物質化するための炉は心のようなものだったのではないのか?

心という炉、そこから発せられた響き、音が意識の物質化を象徴していると、そう思えたからこそ、音を祀り始めたのだけれど・・

意味のよく分からないことを意図的に続けるのは、世界開闢から自身に至った今、かつて体もなく、大元にいたことを意識して、ここで何をしているのかを、世界を開闢した何かに伝えたいからである。

音歴は混沌の呪、物質化する力の無い者にとって、限定したことが自由への道標(みちしるべ)になっていると・・

変換と統一を繰り返してきた血の背負っている記憶から、さらなる感受性を拡げようとする模索、それは未だ見たことのない世界を求めてやまない。

呪音が開く界に気づく叡智を見いだしたくて、音の霊性に今日も寄り添う。

タカユキオバナ

物性のない視覚表現は存在しません。では、「この絵画は、物質ですか?」と問われたなら、たぶん「いいえ、表現したかったのは作品から物質を引いた何かです」と応えるのではないでしょうか。

支持体である紙や描かれた痕跡を除いた視覚では捉えきれない何かを現そうとして、物性のない何処かに、最初の行為がなされるとき、思い描いたそこに現れる何かを予め知ることができるのでしょうか?

恐らく、作者でさえ計り知れない何かが、自発してくるような気がします。ただ、それがとても尊いもので、心から生まれていることだけは分かるのです。

そんな自ら名乗りを上げる計り知れない何かに、何故、献身的に手をかし続けるのか不思議ですが、それがこの世界を開闢した何かの祈りに通じているからなのではないでしょうか。

物性のない視覚表現は存在しません。では、「この絵画は、物質ですか?」と問われたなら、たぶん「いいえ、表現したかったのは作品から物質を引いた何かです」と応えるのではないでしょうか。

支持体である紙や描かれた痕跡を除いた視覚では捉えきれない何かを現そうとして、物性のない何処かに、最初の行為がなされるとき、思い描いたそこに現れる何かを予め知ることができるのでしょうか?

恐らく、作者でさえ計り知れない何かが、自発してくるような気がします。ただ、それがとても尊いもので、心から生まれていることだけは分かるのです。

そんな自ら名乗りを上げる計り知れない何かに、何故、献身的に手をかし続けるのか不思議ですが、それがこの世界を開闢した何かの祈りに通じているからなのではないでしょうか。

 

「呼びだされてしまったの?」

 

何かの眼差しを感じることがある。

それは名のないものが名を得ようとして、こちらを見つめていたのかも知れない。

名付けるということは、見つめ合ったそのものを感じることに他ならなかった。

そのものが放っている命の光は、身体の中で音の霊性に変わった。

幾つかの音が心の声として響きを結んで行く。

それはそのものの働きが身体の中に入ってきたように感じられた。

霊体の容れものとしての自身の内に相手の体の輪郭を意識すると、命の光が結んだこの象の震えに自身の震えを重ねた。

震えは音に変わり、そのものの名のりとなった。

体を持たぬ霊性と響き合うと身体は痺れ体温を下げた。

霊性によってもたらされる心の震えが身体を痺れさせるのだろうか。

血圧や脈拍も変化した。

こうした体験は嫌なことではなかった。

むしろ蒸し暑い夏の神秘体験は寒気がはしる心地よいものだった。

鳥肌が立つ冷んやり感はけして悪くはなかった。

だから声に出してこの名前を呼んで微笑みを返した。

香りを放つように瞳が開いた。

「呼びだされてしまったの?」