※アンゴスチュラについて最初から読みたい方は コチラ
ジーゲルトが南米に渡航した翌々年の1821年、ベネズエラがスペインからの独立を勝ち取り、ボリバルはさらにペルーやエクアドル、チリなど南米各地の独立戦争を教導する為に転戦します。
ジーゲルトはアンゴストゥーラに留め置かれ職務を続行します。
ところがこの頃一つの問題がありました。欧州からの義勇兵達は気候も食事も違う南米の風土に馴染めず体調を崩し、戦闘を継続出来ない兵士が続出しました。(実際6000人の義勇兵の内5850人が戦歿死しているのですが、これには戦死だけでなく、デング熱、コレラ、腸チフス、天然痘、黄熱病、劣悪な食料事情なども含まれていました。独立戦争を最終的に生き延びた兵士は150人程度らしいのです)
この為ジーゲルトは精力的に職務をこなす傍ら、義勇兵の食欲不振・胃の疾患を解決するために、薬用酒の研究開発も始めました。(原住民の民間治療などからもヒントを得たらしいと地元の新聞社トリニダード・ガーディアン紙2000年1月10日記事は伝えています)
4年間の研究の末、入手し易い現地自生の熱帯ハーブや薬草などを独自の配合したドクトル・ジーゲルツ・アロマティク・ビッター(Dr. Siegert's aromatic bitter)またはアマルゴ・アロマティコス(amargos aromáticos)と呼ばれる健胃薬酒を完成させます。この時、既に現在成分は完成されており、アンゴスチュラ社はこの1824年をアンゴスチュラ・ビター誕生年としています。
薬用酒の開発は義勇兵達など周囲の人々に私的に投与する為でしたが、忽ち軍医関係者の間で評判になります。評判が評判を呼びアンゴストゥーラ港に寄港する船の船員達にも広まります。(船員達は既にジンと割って呑む事をこの時覚えています)
ジーゲルトはこの薬酒が一般的になった為、彼の赴任地名をとってアンゴスチュラ・アロマティック・ビター(Angostura aromatic bitter=以下アンゴスチュラ・ビターと略します)と新しい名前を付け、1830年にはアンゴストゥーラに蒸留所を設立し本格的な生産販売を開始します。
1833年J.E.アレキサンダー英軍大尉(Captain James Edward Alexander)がフィラデルフィアで出版した一種のリポート記(TransAtlantic Sketches)の中で、ラムやジン、ブランデーなどをベースに等量の水を加え、アンゴスチュラ・ビターと砂糖とナツメグを入れるカクテルを初めて紹介します。
1846年アンゴストゥーラの街は1830年12月17日の革命家シモン・ボリバルの死去を偲んで、彼の名を取りシウダ・ボリバル(Ciudad Bolívar)に改名します。
1850年54歳のジーゲルトは軍医の職を退役しアンゴスチュラ・ビターの製造に専念します。
1853年には米国、トリニダッド島(Trinidad)やイギリスへ輸出も始めました。
1862年ジーゲルトの長男ドン・カルロス・シールハヤルト(便宜上スペイン語読みにします)がロンドンでプロモーションを行い、ピンク・ジンを紹介。大反響を呼びます。
1870年9月13日ジーゲルトが亡くなります。73歳でした。会社は三人の息子達が引き継ぎました。ドン・カルロス(Don Carlos 1830-1903)アルフレード(Alfredo 1847-1919)ルイス(Luis)の三兄弟です。
ベネズエラッ子だった三人は社名も南米風にドクトール・ホタ・ヘ・ベー・シールハヤルト・イ・イホス(Dr. J.G.B. Siegert & Hijos)と改めます。
次回はアンゴスチュラ・ビター欧州進出のオハナシです(続く )



