2022/11/15の歩行記録です

この日は19℃まで気温が上がりそう
半袖シャツで歩けるよう準備します

お昼を飲食店でいただけるか
分からなかったので
ランチパックをカバンに入れておきます

次は醒ケ井



昨日のゴール、
枝折を通過したのは9:29


一類狐魂等衆の碑
…いまならスケベ金持ち爺事件現場




丹生川
壬申の乱の横河の古戦場跡



中山道 河南です


中山道 ひぐち(樋口)



キッズゾーン…デカい


まずは番場宿を目指します





敬永寺…説明が読みにくい



北陸自動車道をくぐった先に

久禮の一里塚
東京日本橋から117里目
117/129(草津)=90.6%
とうとう進捗率90%を突破です
残り1割を切りました

久禮の一里塚の説明
一番大切なのは久禮のふり仮名「くれ」


ここでは「久礼」となってます


今日も見事な紅葉に出会えました



電気柵があるということは
害獣が出没するのでしょうね


屋根が同じ角度

屋根のところの突き出たものは家紋?

やはり同じ角度

中山道 番場宿


石碑がありました

中山道 番場宿
…「ちゃんと歩ける中山道69 次」によると、番場宿は彦根藩領だったそうです

番場宿のなかの米原道の道標
米原湊…九里半街道の場合は
この道標で曲がるわけですね



脇本陣跡

本陣跡

明治天皇が来ましたよの石碑
…明治天皇は秋篠宮様の非違お爺さん
じゃなかった「ひいおじいさん」
DNA鑑定してないから、知らんけど


蓮華寺


ここは南北朝の古戦場
足利尊氏に京都を追われた
六波羅探題の北条仲時が番場に逃げ、
この寺で包囲され自刃しています

この方の末裔ですね


カミさんの許しをえて
番場宿で気になっていたところへ
100mばかりコースアウト

私が気になっていたのは…

直孝神社


直孝神社は「なおたか」神社と読みます

直孝とは井伊直孝

直孝の父、直政は徳川四天王の一人
武勇だけではなく外交や内政でも
手腕を発揮した「できる奴」でした

直政は家康の四男の松平忠吉の
後見人で、関ヶ原の戦いにも参戦…
どこまで史実か定かではありませんが
松平忠吉の戦(いくさ)勉強と称して
抜け駆けし関ケ原の一番槍を
忠吉に建てさせています

関ヶ原の戦いの終盤、
西軍が潰滅状態になったときに
それまで静観していた西軍の島津勢が
徳川本隊の前を横切って伊勢路に
退却するという行動に出ました

東軍の諸将は「もう勝ったから」と
後追いすることはありませんでしたが
井伊直政はこれを撃とうと追い、
その最中に島津勢の反攻を受け
井伊直政は負傷します

井伊直政は関ヶ原後には
彦根に所領を与えられています

中山道、北陸道などの街道が走り
琵琶湖にも通じる彦根…

豊臣時代には佐和山と呼ばれ、
石田三成が治めた場所でもありました
(佐和山→彦根に改名されています)

まだ、大坂には豊臣秀頼が残っており
豊臣恩顧大名も力を持っていたため
彦根は徳川にとって重要な拠点と
なりました

しかし、その彦根を任されていた
井伊直政が関ヶ原の負傷もあって
1602年に亡くなってしまいます

直政の長男・直勝は病弱だったため、
万一のときに不安があると考えたのか
家康は直勝は安中(中山道宿場町)を与え
彦根は次男の直孝に継がせました

安中城主となった長男・直勝

関ケ原の戦後の難しい政局を
直孝はうまく切り抜けました
大坂夏の陣では長曾我部隊・木村隊を
打ち破り、井伊直政に劣らない活躍でした

ちなみに、井伊直孝は
ひこにゃん誕生ゆかりの殿様です

直孝が輿に揺られていたとき
猫が招き寄せているように見えたため
輿を出て猫に近寄ろうとしたとき、
輿に落雷があり一命をとりとめました

これが「招き猫」「ひこにゃん」が
生まれるエピソードとなっています

だから、ここは
招き猫かひこにゃんがあるほうが
盛り上がると思う私です

ひこにゃんは権利問題が複雑だから
難しいのかな…


さあ、中山道に戻りましょう




②に続きます