鷺田橋で揖斐川を渡りました



これで中山道でも木曽三川…
木曽川(中山道てくてく31)、
長良川(同33)、揖斐川(同34)を
歩いて越えることができました
(東海道編でも歩いて渡りました)




「木曽路」と呼ばれることもある
中山道の「木曽」三川を歩き終えました


(´・ω・) …旅も終盤になるねぇ



「小簾紅園」の案内が出ています
中山道沿いにあり、それに従います


揖斐川の土手を降りたところに
「良縁寺」があります
名前からして恋愛、婚活方面に
効き目があるとPRすると良さそう…

良縁寺の門前で、プチトマトを食べて
休憩しながら良縁寺の由来や
この先のルート確認をします

良縁寺は
「呂久の渡し」の舟年寄りを勤めた
馬渕善左衛門のお墓があるそうです


(´・ω・) ...

「呂久の渡し」?
「舟年寄り」?

なんのことか…と調べます

織田信長の嫡男に
織田信忠という人物がいます

信長が本能寺の変で伐たれたとき
そばの寺社で宿泊した信忠も
明智勢に囲まれ自死しています

信忠は信長の後を継ぐものとして
期待をかけられており
それに応えていました

信忠の最大の武功は
甲州討伐の総大将となり
織田家にとって長年の宿敵だった
武田家を滅ぼしたことでしょう

信長は安土城に移ると
長年居城としてきた岐阜城と
織田家の家督を信忠に譲り、
信忠こそが織田家の相続人であると
内外に知らしめました

信長のころから岐阜城は栄えており
京都や近江との物資等や軍勢の
往来が増えていました

信忠は岐阜城から京都、近江への
交通整備に着手し
そのあいだの揖斐川の交通確保のため
渡船場を整備しています

揖斐川は当時「呂久川」と呼ばれ
その渡船は「呂久の渡し」と呼ばれました

信忠の治世は長く続きませんでしたが
江戸時代となり徳川家康が
中山道を整備する際に
信忠の呂久の渡しや宿場町は
レガシーとして引き継がれました

ちなみに現在の揖斐川は
信忠が存命のころとは別のところを
流れています



白鳥神社
白鳥というとスサノウの化身という
伝承がありますが、関係あるのかしら
(確認せずに通過しました)



しばらく進むと小簾紅園があります

小簾「紅園」なので
11月の紅葉がきれいです



降嫁のため中山道を通った和宮さんも
呂久の渡しを利用しており
歌を残しています

A宮長男のような盗作ならぬ
ゴーストライターが書いたのかもな…と
イマイチ信用できない私です

なんとなくA宮ファミリーのための
メッセージのように感じました
…あるといっても仮寓所を我が物顔で
居座る次女もモンスターだよなぁ


この公園は呂久の渡しの渡船場跡

呂久川(旧揖斐川)に面していたのか

揖斐川呂久渡船場跡
…呂久川=揖斐川だけど、なんか違和感

小簾紅園の園内を通過し、去ります


さぁ、旧中山道を西へ

平野井川に架かる新橋
日本中に「新橋」という橋はいくあるのかしら




これを渡ると大垣市に入ります



④に続きます