今回は33③なのでトリプルスリー

「燦々(さんさん)」と輝けば良いけど
「散々(さんざん)」な内容となります



鏡島湊/河渡橋の手前で
振り返った私は岐阜城に気づきました

丘陵にたつのが岐阜城です
岐阜城があるので丘陵は金華山です


井ノ口(井口)→岐阜と
改称させたのは信長ですが
岐阜城の前身・稲葉山城についても
岐阜城に作り変え
稲葉山も金華山に改称させています

改称大好き信長くん




さぁ、渡りますか…河渡橋
1980年に完成した橋長374.7mで
長良川を渡ります

なんか雲が暗くなってきてないか?

右手にうっすら金華山と岐阜城
…さっきよりもシルエットがぼんやり

ますます薄らいでいないか?

消えた…


そのとき(10:55)、雨が降り始めました

あっという間に歩道が水浸し

どんどん強くなる雨足

欄干に雨がつよく当たり、
バチバチと音がします
すかさず折り畳み傘を広げると
傘を叩く雨音が凄まじい

うわぁ、びちゃびちゃ

長良川を楽しむことなく退散です

撤収

10:58、
河渡橋西側の橋の下のトンネルに
逃げ込みました


たった3、4分なのに…
すぐに傘をさしたのに…
私たちはびしょびしょです

てくてく歩き旅史上、
ここまでの豪雨ははじめて

このまま外に出れば
土砂降り歩き旅となってしまう…


まずはタオルで全身を拭い、
スマホでSmartNewsを立上げ
雨雲レーダーをチェックすると
10分もすれば雨が上がりそう…


やることもなく
スマホでポチポチしていて
はっと気づきました

ここ河渡は「合渡」とも書き、
関ケ原合戦の前哨戦として知られる
「木曽川・合渡川の戦い」の
「合渡川の戦い」が行われた場所です


関ケ原の合戦の前段階で
徳川家康ら東軍のほとんどは
北関東の小山にいたときに
西軍の挙兵を知り
そこから中山道と東海道で
西に向いました

中山道は家康の息子・秀忠が
徳川家の主力部隊を率いて進み、
東海道は家康が豊臣恩顧の諸大名と
進むことになりました


東軍には豊臣系の大名が多数おり
徳川家康は対石田三成なら味方しても
対豊臣家…対豊臣秀頼となったとき、
彼らが徳川と対立するリスクがあると
考えていたようです

家康は出兵の準備をするため…と
しばらく江戸に留まり
福島正則、池田輝政らの豊臣恩顧組を
先発隊として進軍させていました



その先発隊はどんどん進軍し
福島・池田勢は難攻不落と思われた
岐阜城を破竹の勢いで落としました

このとき石田三成は
大垣城に居ましたが
岐阜の木曽川で織田秀信が東軍に
大敗の報が入ると
家老の舞兵庫(前野忠康)に
割ける最大の兵力一千をつけて
救援に向かわせました

舞兵庫として知られる前野忠康


石田三成は
織田信長が攻略に数年をかけた
美濃随一の要塞・岐阜城が
援軍が到着する前に陥落するとは
思いもしなかったようです



合渡川まで着た舞兵庫の隊は
渡河の前に朝食をとっていたとき
黒田長政、藤堂高虎、田中吉政らの
東軍に攻められました

黒田長政…軍師・黒田勘兵衛の息子

藤堂高虎…四日市名物「長餅」由来

田中吉政…関ケ原後に三成を捕縛


舞兵庫が合渡川に着たときは
私が歩いたときのように
見晴らしが悪かったらしい(濃霧だった)

こんな感じで晴天なら
東軍に不意打ちされなかったろう


黒田長政や藤堂高虎、田中吉政らは
池田輝政や福島正則らが岐阜城を
占拠してしまったため
西軍の中心人物の石田三成がいる
大垣城を攻めて手柄を立てようと
進路先を変えたところ、
たまたま舞兵庫率いる救援軍に遭い
川霧を利用して急襲しました


東軍の軍事行動は滅茶苦茶…
功を焦って各大名が進軍しています

石田三成は机上で
千里先を読み、論理的に
戦略を考えていたようですが
福島、池田、黒田らは
各々が手柄を立てようと
近眼者のように活発に動き回りました

結果として、石田三成の計画は
東軍諸将のナンセンスな行動により
狂わされていきました

舞兵庫率いる兵一千は
ナンセンスな黒田ら一万余に急襲され
撤退することになりました
この戦いで舞兵庫は三百の兵を失い
猛将・杉江勘兵衛も戦死しています

舞兵庫も杉江勘兵衛も
世に知られた合戦上手でしたが
合渡川の戦いで破れたり戦死し、
西軍に東軍の強さと恐怖感が
一気に広まることとなりました

岐阜城陥落と河渡川敗戦は
西軍に大きな影を落とすことになり
結局、最後まで尾を引くこととなりました


11:11、雨が上がりました

結局、
15分のトンネル雨宿りでした

雨をしのがせてくれて、ありがとう


遠くに岐阜城が見えます
さっきは霧で見えなかったのに…

先ほどのような霧で
舞兵庫…ひいては西軍が負けたなら
怖いもの…と思いつつ歩きます

さあ、ここを降りよう

馬頭観音の前を通過
舞兵庫らもここを敗走したのだろうか







河渡宿と一里塚の説明
河渡宿一里塚は江戸から107里目

江戸時代にここが水難になったとき、
当時の代官・松下内匠が
1.5mほど土盛をする土木工事をし
宿場を守ったため「松下神社」として
祀ったのだとか
軍人より松下内匠のような奉行に
私は魅力を感じます



④に続きます