五輪メダルに木曽ジャパン技術




9:40、
桃岡橋で奈良井川を渡ります
立体交差しているのはJR中央西線
この線路を潜って進みます

地図を見ると
JR線と平行して歩いていきますが
列車通過の少ない鉄路より
山々の景色の方がインパクト大

掘削して作ったような道もあり
山やら崖やら川やらで
「木曽路っぽいなぁ」としみじみ

新しいマンホールデザイン
地名が入っていませんが
イワナっぽいのが描かれてます
近くを流れている奈良井川に
棲んでいるのかな


幹線19号から外れた長瀬地域
道端の木材が木曽っぽい

この薪みたいのも…

家の横の除雪の道具なども
北国だよなぁ…と感じます
3月下旬でも降雪するのかしら


道の駅 木曽ならかわ 500m
ならかわ=「奈良」井 & 贄「川」

木曽路 積雪凍結地域 チェーン携行
…地域性が滲み出る国交省看板

9:55、
スタートの贄川駅から3.2km通過


10:06、道の駅 木曽ならかわ到着
木曽くらしの工芸館なども併設

大きな施設でなかには
漆コーナーがあります

これは1998年に開催された
長野オリンピックのメダルです

この長野五輪メダルには
木曽漆器の技術が使われています

単なるご当地PRかと思いましたが
漆器は英語で「japan」なので
日本の「Japan」と「japan」を
ひっかけて木曽漆器が用いられた
…とのこと

個人的には前日お蕎麦を食べた
洗馬(せば)の焼き物に惹かれました

「これいいよね?」とカミサンに 
同意を求めましたが賛同得られず…

…実をいうと道の駅の少し手前に
セブンイレブンがあり、
はじめそこで休憩の予定でしたが
予想以上に道の駅が立派なので
「ご当地グルメとかありそう」と
進んでみたものの
その場で食べられるものはなく
ご当地ジュースを買うことに

敷地内のあちこちは
新型コロナ対策されており
私たちも誰が座ったか分からない
ベンチなどを使うのも嫌なので
道沿いで休憩しつつ飲みました

( ̄~ ̄;) … 激甘だな、これ


道の駅見学&トイレ、ジュースで
30分ほど休憩し10:40に再出発
標識には「平沢」と出ています

風情のある緩やかな上り坂

ここは…物見坂かな?
でも坂らしい傾斜とも思えない…

う~ん
ここが物見坂なのかしら
左の鬱蒼とした山が坂なの??


地域案内があります
「うるしの里 木曽平沢」

これだな…
木曽平沢は漆器(うるし塗り器)の
産地として知られています

ここからの眺望は素晴らしい
「物見」坂とはここから景色を
楽しんだから命名されたのかも…


そして数分前進し気づきました
この左から合流してくるルート…
これが正しい旧道だったようです


赤字で書いたように
私たちは5枚上の写真で
鬱蒼とした山…と書いたところに
「諏訪神社」があり
そこを通らずに自動車道で
ここまでやってきてしまいました


(´・ω・) … 戻るの面倒だな


さて上のガイドにもあるように
スルーした諏訪神社…

ここは武田家が
木曽を攻めるにあたり
陣に敷いていたようです

(ブロ友さんの諏訪神社の写真)


武田信玄が信州進軍したとき
ここに陣をはり
木曽の領主だった木曽義康を攻め
降伏させました

木曽義康は義仲の子孫だと
称していましたが
本当のところは良く分かりません
木曽を統治するには義仲の
ブランドを使った方が上手く
いったのかもしれません
(関東の後北条氏のように…)

信玄は義康の投降は認めたものの
自分の娘を義康の長男・義昌に
嫁がせ、政略結婚し
木曽家の取り込みを図っています

信玄としても義仲以来の
木曽ブランドと縁戚になるのは
悪くないと考えたのでしょう

武田信玄は一代の英雄でしたが
信玄のカリスマ性や実績で
家中統制できていた面があります

信玄は急死します

あとを継いだのは勝頼でした


武田勝頼は信玄の四男で
信玄の存命中には跡継ぎという
扱いをされていませんでした

勝頼の母親は諏訪家出身で
木曽家のように屈服させた
信濃の名門・諏訪家を
継ぐ「諏訪勝頼」として
育てられました

しかし、兄たちが若死にしたり
父によって滅ぼされたため
回り回って勝頼が武田家を
切り盛りする役を引き受けました

跡目相続という問題を
武田家…信玄はうまく片付けず
急逝したことになります

武田家の事業継続…において
大きな宿題をほったらかし
それが勝頼にのし掛かりました

武田勝頼は信玄が乗っ取った
諏訪の姫に産ませた男子であり
歴戦の武田猛将たちからの
リスペクトは得られず
繰り上げ当選のような
跡継ぎと見なされたようです
(その時点で信玄の家中統制ミス)

勝頼は家中の信頼を得ようと
遮二無二戦い武田の領土を
信玄時代よりも拡張しました

信玄が死んでも
信玄イズムで鍛えられた軍団は
他国にとっては脅威でした

とはいえ
敵対する織田信長は
信玄存命中よりも強大になり
武田が数パーセントUPしても
織田は数十パーセントUPしており
手に負えない差が生まれていました

勝頼は武田家中の
レベルアップのため
織田や徳川が成功したモデルを
採り入れようとしますが
信玄を懐かしむ諸将からは
懐疑的な視線が向けられます

織田は安土、徳川は浜松に
拠点を移して
新しい城下町を築いていました

織田・徳川に睨みをきかせるため
勝頼は拠点を甲府→新府へ移し、
近代的な築城に着手します

城下町づくりに必要な
建設費と材料のため
勝頼は増税と資材提供を求めます

材木産地の木曽領主 義昌は
増税だけでなく
木材提供・運搬が課されました

信玄が強大だったから
靡いていた、従っていた者たち
その一人が木曽義昌でした

信玄の死後、
長篠の戦いで武田家は
織田・徳川連合軍に破れ、
勝頼のリーダーシップに対する
不安が家中に広まっていきます

斜陽の武田家でした


木曽義昌は
信長の長男・織田信忠に
弟を人質に送り臣従を誓います
武田を見捨て、織田に乗換えました


この裏切り行為を
義昌の妻(信玄娘で勝頼の妹)から
知らされた勝頼は怒り
従兄の武田信豊を先陣の大将に
木曽征伐に向かわせます


この征伐で武田信豊は
木曽義昌の母や子を捕らえ
磔にしますが
戦いそのものは泥沼化します

ただ、この磔行為が
織田信長・信忠親子の
武田攻めの口実となります

木曽義昌援軍として
数万の織田勢が信州へと
進攻してきました

この先私たちが越えることになる
鳥居峠では
木曽義昌&織田信忠の救援軍と
武田信豊が戦い、
武田軍は大敗北します

信豊に続き
本隊を率いていた武田勝頼は
諏訪神社に陣を張っていましたが
(信玄の前例を大切にしたのか?)
信豊大敗の報に触れ
神社に火を放って退いています


「諏訪」四郎勝頼が
諏訪神社から退却したときから
武田の転落が加速化したと思うと
私は因果なものを感じます


ふぅぅ、よーやく
武田vs織田の鳥居峠合戦を
書き終えました


そして、今になって思うのは
「物見」坂とは
景色を楽しむ「物見」ではなく
戦いの偵察の「物見」ではないのか


信玄のとき、勝頼のとき
この坂からは違った物見の
眺望が拡がっていたのかもしれません


④に続きます