あれかな?





日本三大遺跡のひとつ
平出史跡公園をちらっと見た私たちは
旧中仙道を京都方面に歩いていきます


風花(雪)はこの時点がピークでした
雪よりも風のほうがやっかいでした


日本農作物輸送センターを通過
ここか配送された農作物を
たぶん私も食べたことがあるのでしょう

スリップ注意 5℃
先程から気温を紹介する掲示板が
ちょこちょこあります
国道19号だからチェーン等をつける
目安として出しているのでしょう
雪国なんだな…と感じます


個人的に気になったのは
掲示板の後ろに見える食堂「弁慶」 
人気があるようで大型車両が停まって
ここで食事をしているようです



もうすぐ「木曽路」ゾーンなのだから
弁慶よりは「義仲」とか「巴」だろ…と
ツッコミたくなります



ちなみに木曽義仲と愛妾の巴御前は
弁慶と同じ源平合戦の時代の人物で
人形劇にもなった「平家物語」で
活躍する木曽出身の英雄・女傑

巴なんて
おかずを三つ巴に配した定食
「巴御前」にできると思うのだけど
どうなのだろう?


ちなみにこの先、私が触れる
木曽義仲、巴御前…あるいは
源頼朝、源義経、後白河上皇らの
情報はスーパーやっつけで仕入れた
wikiインスタントYouTube知識なので
間違っていてもお許しください



椎名林檎「やっつけ仕事」では 
♪好きって何だっけ? 思い出せないよ
歌われます


私が好きなのは
カミサンと街道を歩くことで
歴史通になることではありませんから
そこらへんは「やっつけ仕事」で
スルーさせていただきたいと思います


私は源義仲こと木曽義仲が好きです

いや、私が好きなのは…
チーム義仲かもしれません

義に厚く情に脆い…
戦にはめっぽう強いのに
まつりごとには未熟な
木曽義仲の郎党には
不器用で愚直な印象があり
私はそこに愛しさを感じます

最期の行動…
今井兼平を孤立させないよう
自ら援軍となる判断は
一軍の大将としては未熟ですが
その友情の篤さにはグッときます

そうした義仲の逸話に惹かれ
松尾芭蕉が義仲の菩提寺に
自分も葬って欲しいと望んだのも
私には理解できます


後白河上皇や源頼朝のような
腹黒タヌキや縁故マウンティングを
相手に過ごしている私は
義仲とその仲間たちの潔さや
不器用さに魅了されます

「奥の細道」で知られる芭蕉と曽良は
忍者(スパイ)として奥州諸藩を
偵察していたという説があります
(芭蕉は忍者で有名な伊賀出身)
(曽良は後に幕府に使えている)


社会の辛酸を嘗めたからこそ
社会の汚い部分も見てきたからこそ
松尾芭蕉は俳句に美を求めたし
美しいまでに愚直だった
地方出身の英雄 木曽義仲に
強く惹かれたのかもしれません


私が木曽義仲のことや
後白河上皇、松尾芭蕉のことを
つれづれと考えてしまうのは
木曽ゾーンに近づいていることと
肱懸松に近づいていることが理由です


19号道路の脇道に入ります
遠くに見える鉄塔が長野県っぽい形状


19号への再合流地点で
歩いてきた方向を振り返ります


19号道路を横切り洗馬駅方面へ

花が春の訪れを告げています


中山道を進みます


旧道っぽくなってきました

屋根の先の独特の形状は
この地域ならではの「雀躍り」
地域の名士とか有力者なのかしら

雀躍りの横を過ぎます


高台の縁(へり)に道があり
低地を見渡せます


松が見えてきました
歩きながら私が探していた
「肱懸松(ひじかけまつ)」は
これのようです

根本に石碑や看板が並んでます

ひじかけまつ(肱懸松)
細川幽斎が
この松に肱をかけ木陰で休息し
河風で涼をえた…という句を詠みました

徳川秀忠も別の折に休息していますが
細川幽斎の句を知って真似たのかも…

細川幽斎こと細川藤孝は
大河ドラマ「麒麟がくる」にも
登場しています

明智光秀の友として画かれがちですが
私はちょっと違った印象があります

細川藤孝こと幽斎は
足利将軍の重臣・細川家の出身で
足利→織田→豊臣→徳川の時代を
しなやかに生き抜いています

権謀術数や戦いがひしめく戦国乱世で
細川幽斎をしばしば助けたのは
彼の教養と人脈でした

幽斎は足利将軍の御落胤と噂され
(御落胤=隠し子…と考えてください)
真相はどうであれ
細川幽斎のノーブルな印象が
そうした風評を生んだと思われます


彼は文芸や剣術の免許皆伝を得た
文武両道の教養ある武将でした

句を詠むことにも長けていれば
古今の句にも通じており
伊達政宗を赤面させたかと思えば
関ヶ原の戦いでは大軍を相手に
籠城して城を守り抜いています



スーパー有能インテリな
サラブレッド武将の細川幽斎

わざわざ中仙道を歩き
句を残しているのも
彼の処世術なのかもしれません

彼がこの地を通過したのは
豊臣秀吉の小田原討伐後で
新時代の主人となるであろう秀吉に
文化教養人として印象づけようと
ネタを仕込んだのかもしれません

教養の乏しい秀吉に
幽斎はそれ(知性の輝き)を
提供することで
近づこうとしたのかもしれません


私は細川幽斎のことを考えるとき
源頼朝や後鳥羽上皇のような
老巧な政治家のような
したたかさをイメージします

木曽義仲が彼らに翻弄されたように
明智光秀も幽斎によって
うまく利用されたように思えます


織田信長に仕えるのはハードなので
明智光秀という純朴な田舎者を
クッションとしながら
政権中枢とのパイプは作っておく


細川家は明智家と近い存在で
縁戚関係になっておく
(有名な細川ガラシャは明智家出身)
(ガラシャは幽斎の跡取りの嫁)

行軍でも細川家は明智家の指揮下にあり
領地も明智の近くで良いとしておく

細川幽斎にとって
明智光秀はあくまで政友で
過烈な織田信長との接触を
クッション材として利用しつつ
趣味のあう文芸などの話をしておく

幽斎が句を詠んだとされる
松を見上げます


寄らば大樹の影…といいますが
幽斎は寄るべき樹木の選定において
たぐいまれな慧眼をもっていました

お正月番組のGACKTさんなみに
間違えずに名門細川家を永らえました


肱掛けて
しばし憩える
松陰に
たもと涼しく
通う河風
(細川幽斎)



句に詠まれた「河風」とは
近くの奈良井川からの風でしょう

「奈良井」は「ならい」と読み
古くからの習い…慣習に通じます

「松陰」とは影で待つことか
「たもと」は袖のことだけでなく
交遊や麓や端を意味します


細川幽斎は
習いに長けつつも
交流は涼やかであり
けして表に出ようとせず
陰で過ごしながら風向きを読む
そんな処世術の名人だったと
私には思えます

それは木曽義仲とは
真逆の生き方だったかもしれません


③に続きます