交通の要所…岩村田



岩村田橋を渡ります
この橋は河川ではなく上信越道を
跨いでいます


上信越自動車道は
上州(群馬)、信州(長野)、越後(新潟)の
3県を繋いでいます


橋の西側は商業施設が増えます


善光寺道道標…
中仙道との分岐点で
ここから枝分かれする隘路をゆくと
長野・善光寺や越後方面に通じます



その近くにある龍雲寺
武田信玄と所縁が深く
川中島や上洛へ進軍するとき、
ここで戦勝祈願したとか
遺骨もここに納められているとか…


台風のせいか案内板が倒れていました



龍雲寺から三百メートルのところに
「岩村田」交差点があります
岩村田は中山道の宿場町で
商店街にはそのことをPRする提灯が
吊るされています




岩村田(いわむらだ)の商店街は
招き狐のタイルが敷かれていました


そんな商店街の一角にある
数珠の飾りの「念仏通り」
ここから名刹・西念寺に通じます


西念寺は小諸藩・初代藩主
仙石権兵衛久秀の菩提寺です


仙石権兵衛(せんごく ごんべえ)は
漫画「センゴク」の主人公です

まさに波乱万丈の武人・戦国大名で
劇画のような人生を送りました

権兵衛は獰猛な武者で
若き日の豊臣秀吉に仕え
本能寺の変を経て
秀吉が天下人に邁進していくなか
その侍大将、一手の武将として
大役を任されます

しかし、四国攻めでミスし
九州征伐で大失態をおかしてしまい
秀吉から追放され、浪人となります




名誉挽回のため
権兵衛は小田原征伐のとき
徳川家康に陣を借り
徳川勢の客将として参戦します

箱根「仙石原」は一説に
ここで権兵衛が大活躍したため
「仙石」という名がついたとされ
小田原攻めの功績が認められ
秀吉によって権兵衛は帰参が赦され
戦国大名にカムバックします

与えられた領地は信濃・小諸5万石


午前中、軽井沢→中軽井沢の移動のため
乗車した信濃鉄道が小諸ゆきでした


権兵衛は中仙道に近い、
善光寺道沿いの小諸の領主となりました


陣を借りた縁から
権兵衛は徳川家康と親しくなり
関ヶ原の戦いのとき、東軍につきます


関ヶ原には
徳川家康が東海道、
息子・徳川秀忠は中山道で行軍し
権兵衛は秀忠軍に従いました

秀忠ら中仙道進行軍は
上田で真田昌幸・幸村の
翻弄・抵抗にあいます

権兵衛が献策したもの
秀忠は関ヶ原の合戦には遅れてしまい
面目を失います

徳川家康は奮戦した諸将の手前
秀忠の失態を大いになじりました




権兵衛は行軍に尽力しただけでなく
家康に対して遅延の弁明も行い
秀忠(徳川)の窮状を救いました

歴戦の勇者であり
流人の境遇にやつしたこともある
仙石権兵衛だからこそ怯むことなく
秀忠のため、徳川家のために
家康に物申したのかもしれません

この一件もあって
徳川家康・秀忠の権兵衛への信頼は
非常なものとなり
権兵衛が江戸に参勤するときは
幕府の役人が板橋まで迎え出、
江戸城でも譜代大名に準じた
部屋に通され待遇を受けるなど
特別なものとなりました


仙石家は
家康や秀忠の娘、養女と
結婚したわけでなく
たかだか5万石の小身大名…
豊臣恩顧の小大名がここまでの
待遇を受けるのは異例中の異例


藤堂高虎と仙石権兵衛は
徳川家康・秀忠にうまく取り入った
豊臣大名として特筆すべき存在でしょう


そんな権兵衛の菩提寺・西念寺には
ぜひ寄りたかったものの
もう夕方となり
龍雲寺が閉まっていたため
同じだろう…と先を急ぐことにしました


さて、岩村田(いわむらだ)は
中山道(東京・京都方面)ばかりでなく
善光寺道(新潟方面)との分岐点があり
佐久甲州街道、塩の道(山梨方面)の
起点もあります

岩村田は佐久平のヘソ…


佐久甲州街道との合流点

塩の道の起点となった道祖神



(´・ω・) … まさに要衝の地


信玄や権兵衛と関係の深い
岩村田を背にして
私たちは西に向かいます

踏切

中仙道踏切


(´・ω・) … これはJR小海線だね







この日10/20は
令和元年台風19号が
12~13日にかけて長野県を通過して
まだ1週間程度で小海線は順次
運転区間を広げているところでした
(10/29時点でも一部運転見合わせ中)


私たちは1週間経っても
完全復旧しない鉄道路線に
台風の恐ろしさを感じたのでした


⑥に続きます