
孤独のグルメ Season2 で
井之頭五郎さんが訪れたお店
手前に写る
窓際席で
ゆったりと珈琲をいただく
こちらは
東横線白楽駅から
少し歩いたところにある喫茶店
「珈琲文明」
以前書いたように
私はコーヒーの味など
皆目わからない
ただ
喫茶店のムードが好き
腑に落ちることない
憤懣、苛立ちやる場なく
ひとり孤独のグルメを…と
白楽のキッチン友さんで
ランチをいただき
五郎さんも立ち寄った
このコーヒー店に入った
コーヒーの味はわからないけど
店の良し悪しはわかる
こちらのお店は
なかなか良い
クラシックが流れるなか
耳にさわらない程度に
風鈴の音色…
店内に風鈴があり
ときおりあたる風で
涼しげな音が店内に響く
低い弦楽器の音と
風鈴は意外にマッチする
サイフォンで淹れたコーヒーは
なかなか趣がある
いとおかし(をかし)
古文の授業で習った表現が
ぴたりとくる
なにをするでなく
ぼんやりとする
何かをしないという選択もある
ぼんやりと
時間をすごし
ぼんやりと
コーヒーの薫りを楽しむ
喫茶店とは
そもそも何なのか
喫茶とは
飲料水とか飲料と同じくすれば
飲茶のところが
喫茶である
喫茶、
お茶を喫する
「喫」には
飲む、味わう、体験するなどの意味がある
字を分解すると
口、契になる
「契」は
契り(ちぎり)と読み、
約束、男女の交わり、といった意味をもつ
そうやって
勝手に文字を分解したり
意味あいを考えたりしていると
なにやら
喫茶には
水を飲んだりするような気軽さよりも
深い意味合いや
重々しさが潜んでいるように思われる
ひとは
意味づけされたり
説明を聞いたものに
より価値があるように感じるのだと
なにかのテレビで話していた
茶道では
千利休や戦国武将などとの
逸話やエピソードをもつ茶器が
高値になるときく
ものごとの美醜や
希少かどうかよりも
ストーリー性や経歴がものをいうわけだ
この喫茶店にやってきた
私の動機も
テレビ番組で紹介されたからで
そうでなければ素通りしていたことだろう
私のブログを訪れてくださるひとがいる
コメントやメッセージをくださったり
足跡を残してくださる方がいる
上野の美術館だか博物館で
驚いたことがあった
茶器と刀剣をくらべると
茶器のほうがずいぶんと価値が低いのだ
刀剣コーナーには
何本も国宝とされるものがあるのに
茶器コーナーには
たしか千利休に由来する茶碗がひとつ
国宝であとは重文等に留められていた
よくわからない
刀剣と茶器に上下はないと思うが
そういう評価がなされている
個人的には
茶器や茶室には
ひとを魅了するだけの何かがあると思う
信長の家臣には
功績を認められ一国を与えられたものの
希望した茶器がもらえず
それを嘆いた者もいる
一方で
刀剣が国の代わりに与えられた逸話を
私は知らない
せいぜいが
離反したり一本槍に対する手柄として
一振りの剣を与えるくらいだろう
エピソードだけで比較するのは愚かだが
刀剣と茶器の価値を考える
助けにはなるかもしれない
一説に
茶道関係者よりも
刀剣銃器の関係者のほうが
文科省の文化財評価に
口が効けたことから
こうした差が生まれたとか
それはそれで
どうなんだろうか?
しかして
ひとの世も
同じようなことが往々にある
本質的な優劣よりも
コネやら出身、性別、宗旨やらで
評価や査定がおかしくなる
絶対評価などは
神の眼でも持たないかぎり
日常や
しがらみにとらわれた
我々にはできないのかもしれない
利休などは
時の権力者である秀吉に
美において譲らなかったからこそ
名を歴史にとどめた…
はたして
そうなのだろうか?
たまたま
利休の師弟が
そのスタイルを模倣した茶道が
世に広まったがゆえに
大家としての利休の名が
作為的に高まったようにも思われる
みずからを高めるために
利休を成人君主として
持ち上げたのかもしれない
利休は生前
そのスタイルを真似るものより
新しいスタイル、工夫するものを
高く評価した
皮肉なもので
利休を聖人に押し上げたのは
彼が認めなかったタイプの
顔も知らぬ師弟だったのかもしれず
今の茶道を利休が知ったら
はたして何とするだろう?
ひとの世とは
まったく分からない
このブログに訪問してくれる方々、
皆さんに感謝です
私は有名人でも
深みのある人間でもない
まことに浅く
つまらない人間で
くだらないことにくよくよし
怒ったり、悶々としたりする
こんなブログに
貴重な時間を割いていただき
まことに恐縮です
壁にかけられた
古時計が鳴り響き
あやうく
コーヒーを手から落としそうになった
過去のことより
いまも
この瞬間に
ときは過ぎ去ってゆく