ホームに滑り込んできた快速アクティはほぼ満席だった。

 

妻が扉の前で降車客を律儀に待っている間に扉の反対側でスタンバイしていた客はするすると車内へ侵入した。

「これは戦争なんだぞ」俺は妻に言った。「ぼやぼやしていると2時間たちっぱなしだ」発破をかけたのだが、妻は最後の一人がホームに足をおろすまで、決して電車に乗り込もうとはしなかった。そんな妻の横顔は凛々しい。翻ってするするたちはちゃっかり自分の席を確保し何事もなかったようなすまし顔だ。

 

結局少し余分に払ってグリーン車に座った。

 

 

7月末、地元の友人の父が急逝し、帰省した。新幹線を降りて、在来線に乗り換えて、半時間。人ほどしか降りない寂れた駅の改札くぐると、Mが待っていてくれた。すでに20時を回っていた。

Mと喪主のKとは中学からの同級で、よく連れ立って海へ行ったり、山へ登ったりする仲だった。

「あまりに急なことで、なんというか」俺はMの車に乗って、シートベルトを締めた。

「朝に、廊下で倒れてたんだって。安らかな死に顔だったぜ」朝から通夜の準備を手伝っていたMが言った。

10分ほど坂道を登ると、その寺はあった。

「うちの寺ソーセージっていうんだぜ」中学生だったころおかしそうに話していたKを思い出す。

まさかその寺にKの父を弔うためにくることになるとは。

すこしつかれた表情のKに挨拶をして線香をあげる。

「まだ現実感がないよ」Kがいう。「ほら見てみろよ」指差した先の遺影には、80年間の前半をボクシング、後半を釣り師として家族を養っていた男があさっての方向を見ている。「あんな皺だらけだったのに、皺がなくなって」そういうと棺おけの中の父を愛しそうに見る。たしかにKの父親の顔からは皺が消えていた。

 

帰りの車中、来週ぜひ泊まりに来いとMがいう。地元で花火大会があるのだ。

――きっと奥さんも喜ぶぜ

――花火大会なんて20年ぶりだな。どんな顔して参加すりゃいいんだか

――楽しめばいんだよ、楽しめば

Mはすでに2児の父で、恋愛関係に程近いわれわれのことを新鮮な気持ちで見てくれているという

 ――思い出をいっぱい作っておくといい。それが一番の保険だよ。晩はうちに泊まったらいい

 ――じゃあ妻に聞いてみるよ

 

その晩妻に連絡するとぜひ行きたいと言った。俺はMに連絡した。

 

 

もう幾度この景色を見たことだろうか。

旅情は少しも沸かないが、車窓に海が見えてくると、車内の匂いがだんだんと変わるのがわかる。

空は驚くほど高く、沿岸の木々の葉は照りつける陽光を反射し、真っ白だ。

気温はおそらく30度を超えているだろう。

「今日は外が暑いからこまめに水分を取るんだぜ」俺は妻に言う。祭りに出て熱中症にかかるなんてのはどう考えても面白くない。

「お茶」と短く答えた妻に、お茶は利尿作用があるから水が、それも常温がいいのだというと、水は飲めないと言う。

「水が飲めない?」

「水、苦手。特に常温の水は飲めないの。匂いがなんか気になって。結構いるよ、水苦手な人」

俺は異邦人を見るような目で彼女を見ていたのだろう。無意識にあごに左手を当てる。そうして髭を人差し指の背でこする。俺が考えているときのサインだ。

異変を察した妻がやれやれという顔をしている。

そのときの感情を正確に説明することは難しい。あきれているのとも違うし、がっかりしているわけでもない。怒りのようにも感じられたし、悲しみのようにも感じられた。そしてそんなもどかしさの坩堝の中で、釈然としない気持ちだけが、次から次へと湧き上がってきて、心に楔をうって留まる。俺は言葉を失い、終着駅にくるまで口を開くことができず、窓の外を見ている。濃紺の太平洋に巨大な入道雲が突き刺さるようにいくつも聳え立っている。

 

 

翌週、目黒のバーでHが言う。久しぶりに会って近況を話すと水の話になった。

「そりゃあれだよ、想像力」モヒートをすすりながら笑っているが、目は笑っていない。Hは数少ない独身の友人で、俺が知るどの女の子よりも料理上手で、きれい好きで、気遣いができる。たいていの女の子は彼の部屋を見ただけではだしで逃げ出すという。きっと生まれる時代を間違えたのだろう。

「想像力ってどういうこと?」俺は次のカクテルを注文して先を促す。

「つまりさ、お前が外出中『はい』って気を利かせて持っていた水を差し出すと、『あたし常温の水飲めないの』とか言ってくる姿を想像しちゃったんだよ」

俺は驚愕した。そのとおりだと思った。

瞬時に浮かんだ空想の中で味わった気持ちが、心に影を落としたのだ。

「なんでそんなことになるんだ?」

「ん、なんで俺がそのことわかったかってこと?それともなんで電車の中でお前がいやな気持ちになったかってこと?起こってもないことなのに?」

「両方」

「想像力だよ。動く人は俺やお前みたいに動かさなくてもいいのに動いてしまうけど、動かない人は自分の立場から出る習慣がないから想像力がどんどん乏しくなる。水はちょっと特殊すぎるけど、お前は相手の健康を気遣って、水、それも常温をといっているわけだろ?それにたいして嫌いって平然と答えたらお前がどう思うか考えていないんだよ」

「そして H はいつも相手の立場になって考えているから、逞しすぎる想像力でそれを言い当てる」俺は言った。 Hは満足そうに笑って、ロングアイランドアイスティーを追加注文した。

 

 

 

店を出ると、少し雨が降っていた。とても控えめで、遠慮がちな雨だった。

「ホスピタリティと想像力」Hは恵比寿で降りるときにそう言った。俺は原宿で降りて、千代田線に乗り換えると、Hの言葉について考えている。