自転車で夜道を走ってて、どうしてだかわからないが
なんとなく思った

死って自由だな

何故死が自由なのかわからないが、こういう夢見心地の浮かんだ言葉はたいてい自分を導く何かを隠し持っている

俺は死ぬ必要があるのかもしれない
でないと自由になれない

初めて、人生に行き詰まりを感じたのは、6歳くらいの時
引っ越して来て、東京の友達に馴染めず、喧嘩をしたりふざけてばかりいた
五月病、つまり所謂、適応障害だ

友達ができて治ったが、それ以来自然の中で自然体に生きれなくなっていた

成長過程で言えば至極当然なことだろうが、自我を認識し始めたのだ

それ以来は、友達に満たされている時ですら孤独を感じ

中学に入る頃には、ぶつける先の無い怒りに転じていた

有りがちな、社会に組み込まれることへの反発だ

そして高校に入り、未熟な自我は彼女と融合する
自分と彼女の境を失った俺が、彼女を失ったとき
自分の意味も失っていた

そこから、やたら活動的になり、いろんな出逢いや別れの末、落ち着くべき場所を見出さなければいけない段階まで来てしまった

社交性も体良い振る舞いも身に付けた
身の納め所を知ったのだ

ただ、そこに、自分からの“選択”が無い

今まで、紆余曲折しながらも順風満帆と言えるように生きてきたし
旅も冒険もしてきた

今の生活に満足しているし、安定した未来への道筋もうっすらとある

のに、今の自分では自分になれない

OSの容量が足りない

俺は一度“死”を体験しなければいけない

禊ぎによって、これまでつなぎ止めてきたこだわりをサラの状態に戻さなければいけない

何故満たされていて、他人を貧窮な目にあわせているわけでもないのにそう思うかわからないけど

オバマの言うような外から促されるchangeではなく
内的変革が必要なのだ

OSを更新するような何かをしなければならない

多分自分の装置は、自我が芽生えた頃と変わってないのだ

時計の針に置いていかれているのならば、今は立ち止まって目を閉じよう

自分の体験を自分の体験として感じよう

最近ようやく、一人の時間も悪くないと思えるようになった

減煙しよう、我が人生に能動性を取り戻せ…ウソウソ、戒めは何にもならない

自由の等価は死だ

自分にはこだわりがないと思い込んで、隠してきたものを探そう