ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」岩波書店1982 | 日々是本日

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 ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」は、日本でも有名な児童文学作品である。

 

はてしない物語 (エンデの傑作ファンタジー)

 

 原書の出版は1979年、日本での出版は1982年である。

 5年後の1984年に映画化されているので、評価が高かったのだろう。

 昔、映画を観ていずれは原作を読もうと思っていたのである。

 

 ▼映画「ネバーエンディング・ストーリー」(1984年製作・西ドイツ)

ネバーエンディング・ストーリー [DVD]

 監督:ウォルフガング・ペーターゼン

 

 本は随分前に入手していたのだが、なかなか「いま読みたい!」というタイミングが来なかった。

 

 先日、映画「ネバーエンディング・ストーリー」のテレビ放送があったので、夏休みの本という訳でもないが、この夏こそは絶対に読むと決めたという次第である。

 

 映画を先に観直してもよかったのだが、映像のイメージにひっぱられる可能性があるので、原作を読むのを先にした。

 

 映画については、今後の記事で取り上げたい。


 さて、本棚の奥からひっぱりだして、久しぶりに実物を手にしてみると、厚い!

 そうなのである。

 

 児童文学書なのだが、単行本は箱入りでA5サイズよりも一回り大きく、厚さ4cm、590ページである!

 持って読むには大人でも大変な重量感なのである。

 

 有名な作品ではあるが、一応、あらすじを紹介しておく。

 

バスチアンはあかがね色の本を読んでいた――ファンタージエン国は正体不明の〈虚無〉におかされ滅亡寸前。その国を救うには、人間界から子どもを連れてくるほかない。その子はあかがね色の本を読んでいる10歳の少年――ぼくのことだ! 叫んだとたんバスチアンは本の中にすいこまれ、この国の滅亡と再生を体験する。

Amazon の商品ページより引用

 

 大枠としては、主人公である10歳の少年・バスチアンがあかがね色の布で装丁された「はてしない物語」を読んでいるうちに、作品中のファンタージエンの中に吸い込まれて冒険をするという話である。

 

 作品中で手にする本はこの本と同じ「はてしない物語」であり、本の描写はこうである。

 

表紙はあかがね色の絹で、動かすとほのかに光った。バラバラとページをくってみると、なかは二色刷りになっていた。さし絵はないようだが、各章の始めにきれいな大きい飾り文字があった。表紙をもう一度よく眺めてみると、二匹の蛇が描かれているのに気がついた。一匹は明るく、一匹は暗く描かれ、それぞれ相手の尾を咬んで、楕円につながっていた。そしてその円の中に、一風変わった飾り文字で題名が記されていた。

 はてしない物語 と。

 

※ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」岩波書店1982, p16-17 より引用

 

 単行本の装丁も同様であり、二色刷りで、各章の始めのページは大きな飾り文字になっている。

 

 ▼単行本の装丁

 

 

 良く出来ている。

 

 そして、あらすじの紹介にあるように、

 

読んでいる本の中に自分のことが書かれている!

 

という不思議なことがおこる。

 

 そしてバスチアンは、「はてしない物語」の中の世界であるファンタジー園に吸い込まれていく。

 

 ※前半では「ファンタジーエン」の表記は「ファンタジー園」

 

 二色刷りなのは、「はてしない物語」を読んでいる現実のバスチアンと、「はてしない物語」の中の世界であるファンタジー園でのバスチアンを書き分けるためである。

 

 エンデは巧みな設定で、バスチアンが本の中に吸い込まれていったように、読者を物語に引き込んでいく。

 

 とは言えこの作品が傑作と言われるのは、勿論、この巧みな設定の中で語られる話の中身によってである。

 

 主人公のバスチアンは本と物語を考えるのが好きな少年であるが、母親が病死してからふさぎ込む父親との家庭環境と、学校ではクラスメイトに笑いものにされる生活で閉塞感を募らせている。


 そしてバスチアンは「はてしない物語」を読みながらファンタジー園の「滅亡と再生を体験する」のであり、作品全体としてはバスチアンの心が再生していく物語なのであるが、この心が再生していく物語を通してエンデは人生とは何かを語っている。

 

 

---以下、ネタばれあり注意---

 

 

 学校に行く途中でクラスメイトにからかわれた少年・バスチアンは古本屋に逃げ込む。

 

 バスチアンは、そこで目にしたあかがね色の本を盗んで学校の物置で読み始めた。

 

 物語の前半ではバスチアンまだ現実の世界にいて、正体不明の〈虚無〉におかされて滅亡寸前のファンタジー園の物語を読み進めていく。

 

 このファンタジー園の中の物語の主人公は、危機の解決を託された少年・アトレーユと、それを助ける幸いの竜・フッフールである。

 

 ファンタジー園の女王・幼ごころの君の命をアトレーユに伝えに向かったのは老ケンタウロス・カイロンだった。

 

 そしてカイロンはアトレーユに幼ごころの君の命を伝えた後で、こう言うのだった。

 

いかなる武器もたずさえずに出発するのだ。何ごとも起こるがままに起こらしめよ。 悪も善も、美も醜も、愚も賢も、すべてそなたにとっては区別はないのだぞ。幼ごころの君の前においてはすべてが同じであるようにな。そなたのなすべきことは、求め、たずねることのみ。そなた自身の意見にもとづいて判断をくだしてはならぬ。よいか、けっして忘れるでないぞ、アトレーユ!

※ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」岩波書店1982, p62 より引用

 

 これは少年の冒険活劇譚としては、なかなか珍しい設定ではないだろうか。

 

 しかも少年時代というのは、悪と善、美と醜、愚と賢について学んでいく時期である。

 

 エンデは何を考えていたのだろう?

 

 学ぶのは大事なことではあるが、その結果として判断を下していくということは、一方でありのままから離れていくということだろうか。

 

 人生の要諦である。

 

 その後、アトレーユは太古から生きているという亀から、ファンタジー園を救うには女王に新しい名前を差し上げることが必要だが、誰がそれをできるのか知っているのは南のお告げ所のウユララだというという話をきく。

 

 アトレーユは危機に遭いながらも幸いの竜・フッフールと出会って、なんとか南のお告げ所にたどり着く。

 

 このお告げ所にある三つの門が、またなかなか含みのある設定なのである。

 

 第一の門は大いなる謎の門、第二の門は魔法の鏡の門、第三の門は鍵なしの門と呼ばれているが、特にこの第三の門である鍵なしの門を開ける方法はこうである。

 

入ろうという意志を持てば持つほど、扉はいよいよ固く閉まる。ところが、あらゆる意図を忘れあらゆる意志を捨てることができれば、そのものの前に扉はおのずと開くのじゃ。

※ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」岩波書店1982, p133-134 より引用

 

 判断禁止の次は、意図禁止である。

 

 この逆説的な設定は大人向けの謎とき話では目にすることのある設定だが、児童はどう受け止めるのだろうなぁ。

 

 まぁいずれにせよ、メーテルリンクの童話「青い鳥」も同じ作りの話だから、西洋の子ども向けの話としてはそんなに珍しいものではないかもしれない。

 

 どうやって門を開くのだろうと思って読み進めると、第二の魔法の鏡の門をくぐったら、生まれたばかり子どものようになってみんな忘れているという展開だった。

 

 意外なほどあっさりな展開であったが、核心を突いている。

 

 エンデは何を考えていたのだろう?

 

 求めるが故に得られないということがあるから、そういう時はあるがままであれということだろうか。

 

 人生の要諦である。

 

 これは話の流れとしては、ありのままを見るということの次に、あるがままにあるということを提示しているということである。

 

 傑作の片鱗が見えてきた気がした。

 

 第三の門の先に居たお告げ所のウユララは、女王に新しい名前を差し上げられるのはファンタジー園のかなたにある「外国」(とつくに)の人の子だと告げた。

 

 アトレーユは幸いの竜・フッフールに乗って、ファンタジー園のかなたの国境を目指した。

 

 道中でアトレーユが、現実世界とファンタジー園を行き来できる種族である人狼に出会うと、ファンタジー園と現実の関係が少し明らかになってくる。

 

 ファンタジー園で正体不明の〈虚無〉に飲み込まれた生き物がどうなるかということについて、人狼はこう語ったのだった。

 

連中はな、人間の頭の中の妄想になるんだ。ほんとは怖れる必要なんかなんにもないのに、不安がっていろんな思いを持つようにさせたり、自分自身をだめにしちまうものなのに、まさにそれを欲しがる欲望を持たせたり、実のところ絶望する理由なんかないのに絶望だと思いこませたりするんだ。

※ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」岩波書店1982, p201 より引用

 

 ナンデスト!

 

 そういうことだったのか!

 

 物事をありのままを見て、あるがままにあるということを提示することで何が伝えたいのかわかってきた。

 

 かつてはファンタジー園を訪れる人の子が女王に新しい名前を差し上げていたから、ファンタジー園は続いてきたのだった。

 

 そして今では現実世界の人間の頭の中は妄想と虚偽(いつわり)に侵され、ファンタジー園を訪れる人の子がいなくなったのである。


 ここでアトレーユたちは、一旦、報告のために女王・幼ごころの君の居るエルフェンバイン塔に向かうことにした。

 

 エルフェンバイン塔でこれまでの出来事を聞いた女王・幼ごころの君は、アトレーユと幸いの竜・フッフールに塔で休息するように言って、自らは山奥にいる古老に会いに向かった。

 

 この山の古老こそは、ファンタジー園での出来事を刻々と「はてしない物語」に書いている人物であった。

 

 それ故、山の古老が目の前で書いている「はてしない物語」とファンタジー園での出来事とは一体なのであった。

 

 そしてこのことを知っている幼ごころの君は、山の古老に、バスチアンを本の中に吸い込む秘策を行うように命じるのだった。

 

 この秘策とは、山の古老が目の前で書いている「はてしない物語」に、その本自身に起こってる出来事、つまり今、バスチアンがこの本を読んでいるという出来事を書くということだった。

 

 本の中にその本自身に起こってる出来事を書いている人がいる!

 

 ここまでが、前半部分の268ページまでである。

 

 今回も長くなったので、次回に続く!

 

 

▼単行本

 

 単行本は2022年8月29日時点で3,146円。

 

 なかなか素晴らしい内容ではあるが、児童書としてはなかなかのお値段でもある。

 

▼文庫版はこちら