小泉八雲「怪談」偕成社文庫1991 その5:男と女の情念 | 日々是本日

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 小泉八雲「怪談」(平井呈一 訳)は、小泉八雲という日本名で知られるラフカディオ・ハーンさんが日本の昔話を書き改めた(英語による再話の翻訳)怪談集である。

 

怪談―小泉八雲怪奇短編集 (偕成社文庫)

 

 ラフカディオ・ハーンさんと本の概略については、過去の記事を参照されたい。

 

 

 この本の2回目以降の記事は、「昔から語り継がれてきた人生の教訓とは何か」という視点で、幾つかの作品を取り上げていくという趣旨である。

 

 恋愛と結婚に関する話はこうした昔話の中心的なテーマの一つであり、前回は「男と女の処世」という観点で作品を取り上げたが、男と女の核心は情念であるから今回は「男と女の情念」という観点で下記の2作品を取り上げることにした。

和解

やぶられた約束

 尚、「怪談」の中の一部の作品は青空文庫で全文を読めるがこの2作品は収載されていなかった。

 

▼青空文庫の作品リスト:小泉八雲

 

 まず、「和解」のあらすじはこうである。

主君の家が没落したために、遠国の藩主に仕えることになった貧乏侍がいた。

侍の女房は気立てのよい美しい女であったが、遠国の地で身を立てるために、わざわざ離縁をして家柄の良い娘を新しく嫁にもらった。

遠国の地で侍にはいくらかの貯えはできたが、新しい妻との仲はうまくいかなかったので、昔の女房のことを想うようになっていた。

数年後に遠国の地での務めが終わると、侍はまた妻と別れて故郷の国に帰ることにした。

故郷の国に帰ると、真っ先に自分が住んでいた小さな家に向かった。

侍はそこに、昔の女房の姿があることを期待していた。

昔の家は大分荒れていたが、昔のままそこにあった。

中に入ってみると、女房の姿も昔のままそこにあった。

侍は感激して、過去の自分の過ちを詫びて今でも女房のことを想っていると伝えると、女房も同じ気持ちだと言った。

侍はそのまま、昔の家で一夜を過ごした。

あくる朝、侍が目を覚ますと昔の家は今にも朽ちそうな柱と床だけのあばら家で、傍らに白骨と化した女の亡骸があった。

絶望と傷心を抱えて家の外に出ると、通りかかる者があった。

この家の者はどうしたのだろうと恐る恐るきいてみると、通りがかりの者は、主の侍が去ってから残された妻は病になったが、世話する者もおらずなく亡くなったそうだと答えた。

※青空文庫に収載なし

 比較的短い話であり、男が改心する心中と故郷の国に帰ってからの昔の女房とのやりとり

が話の大部分を占めている。

 

 似たような話として、「覆水盆に返らず」の故事が思い出される。

 

 「覆水盆に返らず」は、貧しい生活に耐えられなくなって出ていった妻が、夫が出世してから戻ってくるが、夫は盆の水を地面にこぼして、こぼれた水は元には戻せないという話である。

 

 男女の役割は入れ替わっているが設定は同様で、教訓話としてはこちらの方が、スッキリしている。

 

 夫婦関係は戻らないにしても、お互いまだ生きているのだから、それぞれの幸せを追求できる余地がある。

 

 これに対して「和解」では、この侍は改心したのだからハッピーエンドでもよいように思うが、一旦は報われたようであっても、最後は絶望に突き落とされる。

 

 教訓話として、自分のことを想ってくれる女房をないがしろにするなというのでは足りていない、一度壊れた夫婦関係は元には戻らないというのでも足りていないということである。

 

 タイトルは「和解」となっているが、いまさら和解などできないのだよ!

 

 女が突き落とされた絶望に、男も突き落とされねばならないのだ!

 

 つまりこの話の核心は、夫婦関係において一方の身勝手さを戒める道徳的教訓ではなく、身勝手さに対して情念がもたらす絶望にあると読んだ。

 

 これが、この話を今回の「男と女の情念」という観点で取り上げた理由である。

 

 男の絶望に希望を与えられるとすれば、それは「男の改心に意味はなかったのだろうか?」という問いに「意味はあった」と答えることだろう。

 

 残された男にはまだ、相手の気持ちを思いやって別の女性とやり直す人生があり得る。

 

 次に、「やぶられた約束」のあらすじはこうである。

話は、病で瀕死の床にある女房と夫である武士の男との会話から始まる。

私が死んだら後添えをおもらいになるのでしょうねと言う女房に、武士の男は縁組は金輪際しないつもりだと答えた。

しかし、周囲の者たちにすすめられてこの男は一年も経たぬうちにまた嫁をもらってしまった。

すると男が夜中の城勤めの日に、昔の女房の亡霊が現れて新しい妻を脅かすようになった。

昔の女房の亡霊は新しい妻の前に現れては、このことは誰にも言わずに黙ってこの家から出ていけというのである。

新しい妻が悩んだ末にこのこと武士の夫に話すと、これを知った男は次の夜中の城勤めの日に、家来を呼んで家で寝ずの晩をさせることにした。

あくる朝、男が家に帰るとそこにあったのは、首のない妻の死体だった。

庭に続く血の跡を追うと、それは垣根を越えてその先の松林まで続いていた。

そして武士の男が松林に入ると、昔の女房の亡霊が新しい妻の首を掴んで立っていた。

念仏を唱えながら斬りつけると、昔の女房の亡霊の体は地面に崩れ落ちたが、手は新しい妻の首を掴んだままだった。

※青空文庫に収載なし

 

 

 そして昔の女房の亡霊は、男の方ではなく女の方に現れる。

 

 話は最後まで昔の女房の情念にまみれていて、他の話にあるようなカタルシスはない。

 

 この意味では怪談話らしい作品ではあるが、ここで取り上げた理由は、この話はそれなりの分量があり丁寧に書かれているので、やはり伝えられてきた意味というものがあるだろうと思ったからである。

 

 再話であるから、聞き取りをした内容にどの程度の脚色が入っているのかは作者である小泉八雲さんに聞かなくてはわからないのだが、ここでは敢えて教訓を考えてみたい。

 

 当時の武士の家ではお家存続が第一であるから、後添えをもらうのがおかしいということではない。

 

 「おかめの話」のように女も現世への執着を滅ぼさなくては成仏できないという意味も、なくないくらにいはあるのかもしれないが、それよりは後添えをもらうのは仕方がないにしても、男がもっと喪に服してもよいのではないかということであるように思われた。

 

 それとも女性の側の視点で、当時の女性の裏切られた思いが怪談に仮託されているということだろうか。

 

 これは男性の側からすると、女の一念の凄さを心しておくべきということである。

 

 自分は男性の側なので、昔の女房の亡霊が「黙ってこの家から出ていけ」と言うところに注目して、男の側が女の気持ちを汲まなければ惨事になるという教訓も読み込んでおくことにした。

 

 いずれにせよ、怪談話というのは情念が込められると凄みが出るということがわかる作品であった。

 

 現代に生きる我々にとってこういう昔話に触れることは、テレビで恋愛ドラマを観るのとはまた別の趣きで、男女関係の情念の在り方に目を向ける良い機会である。

 

 

▼このシリーズの過去の記事

小泉八雲「怪談」偕成社文庫1991 その3:信義と忠義