東国満珠干珠伝説 その14 橘樹神社 茂原市本納 | 未知の駅 總フサ

未知の駅 總フサ

千葉県=東国は蘇我氏に縁の地であったという痕跡を探し、伝承・神社・古墳など諸々を調べています。

百嶋神社考古学にご興味を持たれた方はブックマークの「新ひぼろぎ逍遥」さんを訪ねてみてください。

みなさま、お元気だったでしょうか。

 

前回の記事から約三カ月が経ってしまっておりますが、

すみません、ホンットーに激務でした!

いま現在もまだバタバタわちゃわちゃしたりする事もあるのですが、

かなり落ち着きつつあるのでこの辺りで更新しちゃわないと!

と思って浮上してきております。

とはいえ、まだ波があるので再びわ~っと忙しさの波に呑まれる事も

あるかもしれないのですが(汗)

今年中にこのシリーズは終わりにしたいのでがんばります。

実は残すところあと2回なんですよ、このシリーズ。

いや~、やっとここまできたかという感じです。

長かったなぁ~!(涙)

 

今回は千葉県内に伝わる伝説に登場する女神様をお祀りしている、

この神社です♪

 

 

橘樹タチバナ神社

茂原市本納字御船形738・739

 

すぐ近くの踏切の名称が「以后塚踏切」といいまして

「以后」を検索すると中国語がヒットするんですが中国語なのかな?

意味は日本語で「以後」

この以后塚は「角川日本地名大辞典12千葉県」には小字で「以後塚イゴヅカ」で載っていました

音オトが同じなら字は当てちゃうんだぜの法則が活きていますね(笑)

「后」の字を当てたのは弟橘姫に由来かな

踏切を越えて一つ目の交差点に面した神社の入り口

鳥居がどーん

「橘樹」でタチバナと読みます

実は境内地も含めて遺跡になっております

ドーンと拝殿

本殿

本殿の後ろにある古墳は弟橘姫の陵ということになってます

陵である古墳

本殿の右側

左側

「橘神社」の扁額

彫刻が美しい

手水舎 橘の紋があります

 

 

追記

 

一番大事な「なぜ東国満珠干珠伝説シリーズ」に当神社を含めた理由を書くのを忘れていました!あわわ!

どうして橘樹神社を含めたかというと、一宮玉前神社とこれまでにご紹介した宝珠関係の神社で行われる「上総十二社祭」に、過去この橘樹神社も参加していたからなのです。

参加社の中に「二宮神社」がありますが、上総国二宮が橘樹神社になるので、もしかしたら「二宮」ということで、実際は参加していなかったのに混同された可能性もあります。

ですが記録上で記載のある神社ということで、今回ご紹介することにいたしました。

なお、御祭神の弟橘姫について、別の時にもっと迫りたいと考えております。弟橘姫関連神社などもその時にご紹介しようと思っています。

いや~、リアルが忙しくて頭が疲れていたため、大事な説明が抜けていて本当に申し訳なかったです。

あ、あと余談ですが、先日市原市姉崎の姉埼神社にいきましたら、駐車場が整備されてとても停めやすくなっていました。それにあわせて敷地内の雑木林も大夫きれいに刈り込まれて、とてもスッキリしていたのですが、そのお陰なのかご神気が物凄い事になっていました。前からいい場所でしたが、さらにパワーアップして、ご神気が地から湧きあがってきている感じがして、ブワワワワワ~ッて状態ですごかったです。シナツヒコさんもパワーアップしている感じでしたし、年明けの参拝は絶対行った方がいいと思います。

また境内の祈祷待合所のところに自動販売機があるのですが、そこで飲み物を買うと境内のご神気を受けた波動の高い飲み物を飲むことができるので、さらにパワーをいただけるかもしれません。

ヤー!パワー!

2022/12/10

 

 

 

この橘樹神社は「千葉県神社名鑑」によれば御祭神は弟橘姫。

相殿に日本武尊と忍山宿禰。

御由緒は「社伝に日本武尊の御創建」とだけ。

足りない情報だけを拾っていくと、

「千葉縣神社明細帳」には由緒に

 

景行天皇40年東征の際、日本武尊橘姫の忠死を哀しに比賣の遺物を納め御墓を作らせられ祠宇を葺し其後53年東幸の節日本武尊と忍山宿禰とを合祭有らせられ候事社史に瞭然たり

 

「明治神社誌料 府県郷社(上)」だと

 

創建は景行天皇40年、日本武尊東征の際、尊の為め妃弟橘比賣命海に投ぜらる、尊深く哀悼し給い、遺物を納めて御墓を作り、祠を建て祭らせらる。即ち当社是なり、後ち同53年、景行天皇東幸の際、更に日本武尊及忍山宿禰を合祀せらる

(中略)古来伝云う、祭神鷹を忌み給うと。故に徳川幕府時代、狩の事ありといえども、鷹を携えて当村を過ぎず。若し誤て過ぎんか、其鷹迷逸するか若くは暴死すと云う

 

「千葉縣誌」には

 

もと日本武尊手栽の橘樹ありしが今は其の朽株を蔵するのみ、又境内に多く橘樹を植え、其の実を服用せば痴病を癒すと云う。忌物六種あり社内に入ることを禁ず、末社六座あり。

 

「角川日本地名大辞典12千葉県」には

 

橘木神社・吾妻大明神と呼ばれ橘様が俗称。日本武尊が当地に至り、身代わりとして海に投じた弟橘媛の墳墓を造り、櫛を納め、橘の木を2株植えたのが当社の創祀と伝える。

(中略)また応仁と天正年間に兵乱のため社殿が焼失したが、本殿は寛政12年11月に再建されている(現存)。なおその際に土瓶・壺などが墳墓も南腹から出土したが、幕府は神主の処置を責め蟄居を命じている。

(中略)祭日には鶏献饌真名箸料理神事・羯鼓(舞)などが行われる。当社祭神は鷹を忌むと伝え、鷹匠なども当地を通らず、もし誤って通過すれば鷹は理由もなく死んでしまうなどという6種の禁忌が残る。また社前の吾妻池は弟橘媛の墳墓を造る際に堀り取った跡と伝える。

 

最後に「本納町史」から

 

境内には「御くしの井」「吾妻ヶ池」がある。社伝によれば「吾妻ヶ池」は日本武尊が墳墓を築きし時、土を掘り取りし跡なりと伝う。神社の近傍に「大釜小釜の田」と称される場所がある。尊がここに来り宿営の節、炊事の竈の後と伝えられ、粥米カユゴメという地名は尊宿営の際、土民粥を炊き奉ったところ、尊は大いに感賞され故に地名となったと伝える。現に祭礼の節、粥米の者は土足にて本殿に入る慣わしがある。

(中略)

此の神忌物6種あり、鹿・葦毛馬の社内に入る事、藺イグサ、菅、茶、麻等を作る事、及び鷹狩を忌むという。

 

この他、タケルが山に登って四方を見ていた時に白鳥が一羽東へ飛んでいくのを見ていると、その後を鷹が三羽ついていたが急に落ちて死んでしまった。タケルが東を訪ねていくと例の白鳥が小高いところで羽を休めていたので、白鳥が居た場所に弟橘姫の社を建立したという伝承も載ってます。

タケルが登っていた山は武ヶ嶽と呼ばれ、社を建てた里は芦辺之里(帆丘の前身)と呼ばれたといいます。

また景行天皇が来た時に鶴を頂戴したことから、奉鶴料理(鶴鍋汁)という祭礼があるともあります。

鶴料理だったのが鶏料理になったんでしょうね、鶴、いま保護対象ですからね。

 

「御くしの井」については伝承が拾えなかったのですが、おそらく弟橘姫の遺体の髪を梳いた櫛を洗った井戸とかいうことからの名称なのかなぁと考えています。

 

 

タケル伝説から考えると、鹿野山で阿久留王と闘って内房方面を支配した後、長柄町の山を越えてやってきて、ここから海路で進もうとして座礁。茂原に緊急上陸したという流れでしょうか。

その行程は理解できるのですが、弟橘姫が入ってくると話は違ってきます。

伝説では弟橘姫は千葉県に上陸する前に海で亡くなります。

そしてタケルが内房方面で戦っている時に流れ着いたご遺体が発見されます。当時の保存技術は現代と比べれば雲泥の差であったと思うので、ご遺体は腐敗して大変だったのではないかと。

骸を運びながらの征討は兵の士気にも関わるし、タケル自身がご遺体と一緒に移動したとは考えられないんですよね。

結構険しい山道を軍は進んでたりしますし。

 

何よりも疑問に思えるのは「弟橘姫の遺物」を祀る神社の多さです。

遺物は流れ着いた衣服の一部(大抵袖です)や笄カンザシや櫛と様々なのですが、そんなにたくさん櫛やカンザシを挿してたのかなぁと思える量ですし、袖が流れ着いた伝承もいろんな場所に伝わっています。

千葉県袖ケ浦市があるので弟橘姫の袖が流れ着いたのは袖ケ浦市だと勘違いされるかもしれませんが、袖ケ浦市の名称は近年です。

もともとは東京湾沿いの千葉県浦安市から富津市沿岸にかけて、袖ケ浦・袖師が浦と呼ばれていました。

名称由来はおそらく弟橘姫の着物の袖が流れ着いたことによると思います。

 

んが、

 

果たして袖が一つ二つ流れ着いたからといって、そんな広範囲にひろまるのだろうか?と思うのです。

ましてや日本武尊は東夷にとって「侵略者」です。

敵の姫が亡くなった話をそんなに言い伝えるかなー?と違和感を感じていました。

で、ここからはかなりスピリチュアルな話になってしまうので、お嫌いな方はこの記事を読むことはスルーしてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

橘樹神社に行って確認したら、御祭神は本当に弟橘姫だったので聞いてみたんです。

そしたら

 

死んでないって。

 

タケルとも夫婦じゃないって。

 

えええええーっ!!??(笑)

 

弟橘姫によれば海で死んでないそうです。

タケルとは行き先が同じだったから船に乗せてもらっただけの関係で、今の愛知あたりから乗船したといってました。

 

実は千葉県では亡くなってないんじゃないかと思っていました。

だって千葉県中央区蘇我にある蘇我比咩神社には蘇った伝承も伝わってますし、茨城には弟橘姫とタケルが合流して狩りの勝負をした伝説とか残ってますしね。

 

では東京湾に伝わる入水伝説はなんなんでしょうか?

私はこれは東夷の女性が侵略軍に海で殺された話がベースになってるんじゃないかと思うのです。

だからこそ流れ着いた遺物を丁重に祀ったのではないかと。

 

でもって姫に更に聞いたんですよ。

「本殿裏にある古墳は誰の古墳なんですか、御子孫とかですか?」

「知りません」

「・・・」

 

神様たちは嘘はつけないので、本当に知らないんだと思います。

結構こういう流れがいろんな神社でありまして、前に姉埼神社のシナツヒコさんに祭祀してたのは御子孫ですか?と聞いたら、知らないっていわれましたし、この次に記事にしようと思ってる神社の女神様にも祭祀に関して聞いたら「知らぬ、人が勝手に決めたことだ」って言われましたし、なんか祭祀している人々に関してはあんまり関心がないみたいです。

 

ちなみに弟橘姫に私が「物部氏ですよね?」と聞いたら、

「そうです」とハッキリ言ってました。

やっぱり!と思ったのですが茂原市には真名マンナという地名が残っていて、このマンナという地名は物部氏の故郷であるという古代都市マナを彷彿とさせる名称ですし、茂原市の近くにあるいすみ市には、このシリーズですでに記事にしている中原玉前神社があり、この神社は物部一族が関係しています。

つまり外房地域の下の方は物部氏の色がめっちゃ濃いのです。

だから祀られている御祭神も物部氏に関係しているのだろうと思っていました。

 

忌物として伝わっている「鹿・葦毛馬・鷹」ですが、鹿・馬=鹿島神宮・香取神宮、鷹=忌部の祀る天日鷲命や鷹をトーテムとしている秦氏を連想します。

もしかしたら当地に古代住んでいた物部氏は、鹿島・香取で連合を作っていたと思われる海部族・忌部氏・秦氏とは対立していたのかもしれませんね。

 

しかし今回は弟橘姫とお話しできて、伝説の真実を教えてもらえて、本当によかったです。

スーッと目の前が開けて、これまで疑問に思っていたことが紐づけられて答えが出せたことは大きな前進です。

 

またお会いしに行こうっとv

弟橘姫はたおやかでお優しい方なので大好きです。

 

 

さて、以下はいつものように境内社などのご紹介。

 

御くしの井

伝承は本から拾えず(悔し泣き)

弟橘比賣命御陵の板碑

窟戸神社

御祭神 天手力雄命

永禄年間酋長黒熊大膳亮居城の中に勧請之れあり処

黒熊氏没落ののち村民境内に移祭する由土人の口碑に候

 

子安神社

御祭神 木花咲耶姫命

永禄年間山辺郡土気の城主酒井氏の内室崇敬に因て

当社境内に勧請する由其頃本納城主黒熊氏なる者

酒井氏麾下なるを以て屡々両城主夫妻共往来せし故

当社の地景を相して此事ありと古老の口碑に候

 

稲荷神社

御祭神 保食命

橘神社創立以来境内勧請し右之由にて年記由緒

等判然不仕候

 

吾妻池

秋葉神社

御祭神 伊弉册命 火産霊命

相殿 須佐之男命

鎮火の神と鎮疫の神となるを以天正年間神官依願

境内に勧請し末社となし今日に至る由土人の口碑に候

 

誰?

可能性としては酒井さま?

 

粟嶋神社

御祭神 少彦名命

疾病を鎮癒する神なるを以て文禄年間神官と土人と

相議して允可を請ひ境内に勧請せし由口碑に候

 

 

 

茂原にはもうお一方、美しくお優しい、

イメージが乙姫様のような女神様がいらっしゃいます。

その方もいつかご紹介したいと思ってます。

では、また。