東国満珠干珠伝説 その12 南宮神社他 一宮町宮原他 | 未知の駅 總フサ

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千葉県=東国は蘇我氏に縁の地であったという痕跡を探し、伝承・神社・古墳など諸々を調べています。

百嶋神社考古学にご興味を持たれた方はブックマークの「新ひぼろぎ逍遥」さんを訪ねてみてください。

夏の間に終わらせると心に誓った当シリーズ!

今回はこちらの神社です。

 

 

南宮神社

長生郡一宮町宮原字宮ノ台1131

 

うおおっ!二宮金次郎像だっ!

鳥居

うっかり拝殿全体の写真を撮り忘れていた・・・

正面の写真だけですみませぬ

向拝に鶴と亀

物部と妙見さまかぁ

内陣

本殿を左から

背後を取り忘れたので右側を

北沢楽天の絵馬があるそうです

何かの記念碑

神輿殿かな

旧白山神社の板碑

拝殿の左奥にある御神木

本殿の右側にある境内社

中には御眷属の板

ということは三峯神社かな

たぶん青面さま

 

 

 

南宮神社は上総十二社に入っていますが、こちらもまた宝珠伝説は伝わっていない神社です。

でも追ってみたら非常におもしろかったのでご報告いたします。

 

御祭神は豊玉姫命、金山彦命の二柱で、御由緒は「千葉県神社名鑑」によると

 

景行天皇の皇子倭建命が、勅命により東征された途次、金田郷大宮台で目的完成を祈願し、社殿を建て、海神の御女豊玉姫命を奉祀した。次いで天武天皇の御代、金田郷開発のために来られた穂積氏が金田郷下山に遷宮、美濃国一の宮南宮大社の御祭神金山彦命を相殿に勧請し、祭神は二柱となった。

その後、氏子の要請で応仁年間、現在地に遷宮、現在に至る。なお大宮台、下山の旧社地跡は現存している。

 

「千葉県長生郡郷土誌」だと

 

南宮神社

字宮原区に在り村社にして金山彦命、豊玉姫命を合祀す、創建年月詳らかならざれども白鳳年中なりとの説あり。宮原及東浪見の鎮守たり。年々秋祭に当り神輿一ノ宮玉前神社に会合す。境内に皮部松と呼べる奇松あり。

 

 

上記の御由緒から遷宮して現在地にあることがわかります。

では現存しているという元宮地はどうなんでしょうか。

行ってみよー!ということで、

まずは大宮台の方から。

 

 

 

大宮南宮神社

長生村金田字大宮台2436

 

いい天気でした

立派な社名碑

裏側には木遣り会とありました

まわりは田圃でここだけ少し高台になってました

どーんと拝殿

本殿がない!

陛下御大典記念本宮顕彰之碑

平成2年にすべて新しくしたんですかね

手水舎

子供神輿及本宮建設寄付者名

これをチラ見した私は後に大きなミスをするのです・・・

 

 

写真にある「陛下御大典記念本宮顕彰之碑」より

 

上総国長生郡一宮町宮原に鎮座まします南宮様は両柱にして大宮と南宮となり。大宮と申すは伊邪那岐大神、日向国橘の小戸の檍原に楔秡し給ふ時に生坐せる海水神、豊玉彦命の御女豊玉姫命に坐まし天照大御神の御玄孫、日子火々出見命の后神に立給ひ鵜草葺不合命を生せ給ふ。

此國に鎮座の事は人皇十二代景行天皇の御代(一八七〇年余前)皇子倭建命、東夷を征伐し給ふ時に海上安穏の御祈願ありて金田郷大宮台に鎮奉、今神明様を奉る大宮台これなり。其後人皇四十代天武天皇の御代白鳳年中(一三〇〇年余前)に穂積何某という人、美濃国より来りて金田郷のいまだ開ざる地を開発したる時、大宮を下山といふ地に移し奉、この地本村の本宮これなり、延喜式神名帳に美濃国不破郡仲山、金山神社となる社は南宮大神と名称、本国の一宮たるに依て大宮の相殿に勧請し奉いて若宮と称、其後氏子東浪見村の遠かりしに依て第百三代後土御門天皇の御代、応仁年中(五二〇年余前)に今の宮原の地に移し奉る。大宮豊玉姫命は海神に坐まして海上の難を救ひ魚漁を幸ひ給ふ事は世人のよく知る所なり。

例祭は毎年春秋両期にして大祭は九月十三日となし、御神輿両社、東浪見釣ヶ崎に出御ならしめ給ふは古来より十二社の祭と申し、御妹神玉前様を始として十二柱の神たち出御あり、各祭式等ありて玉前様御神輿と南宮様大宮若宮の御神輿共に釣ヶ崎を立、一宮へまいり両社共に左右捧げ持て、皆口々に姉さんさらば来年会はんと申して互にをろしかずきて宮へ帰るを古例となして今に仕来りある事、世人の知るところなり。さて、我南宮様の大宮豊玉姫命の御孫、神倭伊波礼彦命すなわち神武天皇、橿原の地に即位なされてより二千六百五十年第百二十五代今上陛下の御即位の御大典の御年にあたり惣代各位氏子中共に相計り、この地金田本宮の境内を整備し石鳥居を新たに立て、御先祖様より受継ぎし宮居を子々孫々に伝えんとするものなり。

 

 

どうやら大宮台は倭建命が建てた豊玉姫を祀る神社であったようです。現在は二柱の神の名が付けられた神社名となっていますが、これは間違いで、本来は豊玉姫だけを祀る大宮神社です。

もう一つの下山の神社が金山彦を奉斎している南宮神社の元宮なはずですから、確認してみましょう。

 

と思ったら

 

探してもまったく情報が出てこない。本当に元宮地あるのかなぁ、もしかして明治期に寄せられて近くの神社に集められてる?

その方向で探したら、「千葉県神社明細帳」の長生郡にありました!

 

 

浅間神社

長生村金田字富士ノ腰2032(現在の住所にしてあります)

大正元年南神社(金田彦之命 字本村)中略 合祀

 

 

おそらくこの南神社が探していた下山の南宮神社だと思われます。

合祀されているので社はないかもしれませんが

行ってみました!

 

道路に面した鳥居

本殿です

本殿の正面に睦仁さま=明治天皇の文書が掲げられていました

彫刻にあるのは狐?

あれ?もしかしてこの社は元は稲荷?

本殿左側

朱で塗られていて色使いも鮮やかなんですが

稲荷社だったからなのかなぁ

本殿背面

寄付された氏子さん達の名前が書かれています

本殿の右側

隣りの消防団の敷地から撮影

少し盛り上がっているのは盛り土なのか

元は古墳だったのか

境内の稲生社

境内の板碑

宮造りの匠「猫鉄」さんの作だそうです

南部用水組合揚水機の奉納品

上の機械の説明の板碑

戦争に出兵された方に関する石碑

 

 

神社の造りを見ると、稲荷だったのではとも思えるのですが、その辺りの深堀はまたの機会にして、南宮神社ですよ。

 

白鳳年間に美濃国(岐阜県)からやってきた穂積氏は金山彦命を奉斎しているぐらいなので産鉄民だったと思います。

彼らの移住はもしかしたら天武天皇の命による軍事力増強のための政策だったのかもしれません。

なぜなら南宮神社の元宮地は古代には金田郷(和名抄だと兼陀郷)と呼ばれていた地だからです。

「金」はカナで砂鉄を指しています。

ちょうど一宮川沿いですし、豊富な砂鉄に恵まれた土地であった。

そこで当時産鉄の最新知識又は技術を持った穂積氏を移動させ、製鉄関連業務に従事させたのではないでしょうか。

そういう意図がなければ美濃から千葉にわざわざ移動してくる理由がないと思います。

ちなみに百嶋神社考古学では金山彦命は蔵王権現でもあり熊野久須毘でもあり面足尊であり伊弉册命の兄であり神大市姫のダンナさんでもあります。

 

九十九里浜沿いは、細かく見ていくと製鉄関連と思える地名や神社があちこちにあるのでおもしろいです。

今回の調査でも別に一件、興味深い神社と地名のセットをみつけたので宝珠シリーズが終わったらご報告します。

 

 

最後にスピ話ですが、この取材は一日でかなり回ったのと暑さで疲労気味になっていたこともあり、大宮神社に行った時に何を思ったのか、神輿殿として作られたと勘違いして神様にお話し聞かなかったんですよ。

でも移動するのに車に乗ってからスピ友に話を聞かなくていいのか聞かれて、いないよね?と答えたら

 

スピ友「いるよ」

女神様「おるぞ」

 

と同時に聞こえて

えーっ!

と叫びつつ移動してしまったという。

反省です。

次にいった浅間神社では本当に疲労困憊で金山彦さんがいることしか確認できませんでした。

あああ、夏の暑さがうらめしい。

 

あと、3回の宝珠シリーズ。

がんばります。