東国満珠干珠伝説 その10 椎木玉前神社 いすみ市岬町椎木 | 未知の駅 總フサ

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千葉県=東国は蘇我氏に縁の地であったという痕跡を探し、伝承・神社・古墳など諸々を調べています。

百嶋神社考古学にご興味を持たれた方はブックマークの「新ひぼろぎ逍遥」さんを訪ねてみてください。

今回は前記事とも関係のあったこちらの神社!

 

椎木玉前神社

いすみ市岬町椎木字村岡2172

 

当神社は駐車場ありませんでした

でも神社入り口の正面が家に挟まれた道路になっており

一の鳥居が道路に立っているので参道とみなされているのか

交通量は少ない道で、そこに横づけさせてもらいました

こちらが一の鳥居

シンプルな扁額とお供えのお酒

神紋は左三つ巴

拝殿

からっぽだ~

彫刻に鳳凰ではなく鶴

物部系ですね

 

本殿を右から

背面

左から

拝殿の横というか奥に並ぶ琴平神社

ここの神様にいろいろ教えてもらいました

 

 

 

えー、結論からいいますと、椎木玉前神社も宝珠伝説はありません。

ただ前回の中原玉崎神社と同様、ちょっと面白いことがわかったので

ご報告いたします。

 

御祭神は中原と同様、豊玉姫尊と鸕「茲鳥」草葺不合尊です。

「岬町史」から御由緒を。

 

「往古大同2年(807)に創建、寛永11年(1634)本宮を造営、大宮の地低湿であるので、宝永4年(1707)今の地に遷宮したもので、椎木区と一宮町綱田区の鎮守である。」

 

前記事でも書きましたが、大宮玉前神社が鎮座している地は縄文海進後退後、中原・椎木の鎮座地よりも遅くに陸となった場所です。

湿地であったというのも納得できます。

1が椎木玉前神社

2が中原玉崎神社

3が和泉玉崎神社(無くなってしまっているので代理で飯縄寺)

青丸は大宮玉前神社

FloodMapで海面上昇7メートルの時の状態

 

 

由緒の通り夷隅川から奥地へと鎮座地が移動していったというのは、

この神を祀る氏族が海進後退後に移住してきた人々であったのなら理解できます。

となると玉垣神社のところで触れたように、豊玉姫を祀る氏族は千葉県に後から移住してきた人々であったということになります。

だから一ノ宮玉前神社の御祭神が玉依姫だったり前玉命だったりする謎にも説明がつきますね。

中原玉崎神社で書いた各神社が重要地であったという仮説も、元々住んでいた氏族の重要地を利用して、共存を始めた後から来た氏族が神の社を建てたのだと考えればしっくりときます。

 

埼玉の一族の分かれである先住民(縄文の民)が住んでいた当地に、後から海人族が移住してきて、争うことなく共存していた。

しかし海人族の方が人口が多かったため、時間の流れとともに縄文人の神の存在が不明となってしまったのではないでしょうか。

 

古代の房総の姿は「開けた地ではなかった東国」のイメージを刷り込まれていると最近気がつきました。

ヤマトタケルが亡くなった弟橘姫を偲んで「アヅマハヤ」と言ったという言葉。妻が恋しくて言ったのではなく、古代朝鮮語で「田舎を撃て!」という好戦的なセリフであったといいます。

 

ところで、タマサキ神社の記事を読んでいくと、一ノ宮玉前神社の元宮が大宮玉前神社であると勘違いされている記事をみかけます。

非常に惑わされる建立経緯なので間違えやすいのですが、あくまでも中原・椎木のタマサキ神社の元宮と言われているだけであって、一ノ宮玉前神社の分祀ですから!

一ノ宮の元宮ではありませんので、お間違えの無いよう。

 

 

さてここからはまたスピリチュアルな話になります。

境内に上がって拝殿を見た時に「あれ?」と思いました。

本殿から神様の気配を感じません。

空っぽな感じを受けるのです。

「いた」感じはするのですが、今は「いない」。

そんな感じです。

ここも琴平神社があるので、もしかしてと思い聞いてみました。

その神様によると元々は琴平神社がメインであったけど、後から玉前神社になったといいます。しかも玉前の神様は祭の時だけいらっしゃるとか。

え、祭の時だけで大丈夫なんですか?と聞いたら普段は琴平の神様がいるから大丈夫だそうです。

そんな神社もあるんだ~、と思いました。

 

 

中原も椎木も、元は琴平神社だったとしても、コンピラ様は海の神様だし海人族の氏族が祀っているだろうからありえなくはないんですよね。

ちなみにコンピラ様のコンピラの語源はクンピーラでバンブーボートのことだと百嶋神社考古学の百嶋先生は言っておられました。

じゃあ豊玉姫や玉依姫はいつから?という話になりますが、海人族といっても成り立ちの違う氏族が幾つかあったと思います。

コンピラ様を祀る一族もいれば豊玉姫を祀る一族や竜を祀る一族など、様々だったと思います。

当時は人の情報力は早くはないけど情報網はものすごく広かったと思います。どこそこの海人族が東国に居るそうだが、住みやすい場所らしいぜ、と聞いたら自分たちもいこうぜ!となると思うのです。

そうやって移住者の波が東国に何度もあったと思います。

その結果房総では「神様は海の向こうからやってきた」という伝承が根付いて、祭りの時に海にお神輿が入っていくようになったのだと思います。神様を海にお連れするなんて海人族っぽいですよね。

現在の千葉をみていると、一つの神社に多数の氏族の影響を見ることが多々あって、古代から宗教の自由が認められていたんだなーと思えます。

でも、これって凄い事だと思うのです。

いまの私の脳内では古代フサ国(本当はこの名称じゃないけど)の妄想でパンパンです(笑)

 

さて最後にいつものように境内社のご紹介です。

 

神輿庫及び境内社

八坂神社

綱田若宮神輿庫

八坂神社神輿庫

椎木子供神輿庫

疱瘡神

富士登山記念碑

三峯神社

伊勢神宮参拝記念

玉前神社銅板葺替記念表 芳名

出羽三山碑

芳名

何かでご寄付をされた方達なのかな?

 

 

余談ですが、椎木の御手水舎。

 

 

彫刻が兎なのが気になる。

月読命の影響もあるのかなぁ。