今回は早く、は~や~くっ!
皆さんにお伝えしたかったコチラの神社です!
玉垣神社
睦沢町下之郷字小谷371
神社の石段の脇にあった石仏
おそらく丘陵地を削って作った道路に面した石段
昇っていくと
どーんと鳥居
潜ったらホントにびっくりするほどの清地(すがち)でした!
拝殿
御手水
神紋は左三つ巴
彫刻は麒麟
本殿は見えず、残念
でも御祭神に関して驚きの真実が!
神輿殿かな?
玉垣神社について「千葉県神社名鑑」によれば
玉前六社の一で若宮と呼んでいる。創建は平城天皇の御宇大同2年(807)8月と伝えられる。古くは別当弘行寺。例祭には東浪見浦の釣ヶ崎に渡御したが近世は廃止している。正徳5年(1715)9月26日神祇官より正一位玉垣大明神の極位を奉受す。数次の火災を経て現在の社殿は昭和11年(1936)に新築。
「千葉縣長生郡郷土誌」によれば
下之郷区字小谷にあり村社にして神武天皇を祀り、一宮玉前神社の若宮なり。伝云ふ平城天皇大同2年の建立なりと旧上之郷・下之郷二村の鎮守たり。年々9月13日神輿一宮玉前神社に会合し、次で東浪見釣ヶ崎に渡御するを例とす。而して神輿朱を以て塗るより下之郷の赤御輿とて古来有名なり。
神社の由緒は上記のような感じです。
そしてですね、
御祭神はなんと!
神日本磐余彦尊
なのです。
これまで石宮で幾つか遭遇したことはありましたが、本殿で主神として祀っている所は他に知りません。
神事には御漱祭オミスリサイがあり、これは上総十二社祭に参加している神社がそれぞれ御神輿を清めて飾る神事のようです。
さて、こちらも鵜羽神社の御縁起にあったように平城天皇の御代である大同2年(807)の創建となっています。
んが、
そもそも私は大同年間の創建に疑問を持っています。
一般的に大同年間に創建された寺社が非常に多いということは、ここにいらっしゃる皆さんなら御存じかと思います。
産鉄民関係の本だと鉱脈を探して歩いた弘法大師に代表される密教僧・修験僧らが全国にちらばったことで布教活動が拡大したことから、一気に宗教が広まったことによるとしていたり、WIKIだと坂上田村麻呂の妻が自宅の神殿を解体し、その木材を使って仏堂を清水寺に建てた年に関連しているという説もあります。
でも、すべての創建が大同元年・2年って不可能だと思いませんか?
当時は建築技術って非常な高度な知識です。その知識の担い手である職人さんが現在のように各地に大勢居たとは思えないんですよ。
全国各地で一斉に着工するなんて不可能じゃないですか。
今みたいに簡単に町から町へ移動もできませんしね。
私は元々あった寺社に「なんらかの理由」で大同年間に創建したことに統一されたのだと考えています。
その「理由」とは、渡来人による政権への介入だと考えています。
私が支持している「飛鳥奈良朝~平安期二重王朝説」では元々あった倭王朝と唐の介入により日本国内に造られた亡命百済王朝とが並立し、そのためにこの期間政権争いが発生していたと解釈している説です。
この流れの中で大王家であった蘇我氏・物部王家・秦氏は殺害されたり、迫害されたりで力を失い、唐と亡命百済王家に国を乗っ取られていきます。
「大化の改新」も「改新」という前向きな動きではなく、「乙巳の変」と表すのが正当で、当時の倭王であった蘇我氏から王権を簒奪した唐と百済による歴史の改竄です。
蘇我氏は元々倭において小国を治めていた正当な王家の一つであったと考えています。
「乙巳の変」から始まり「源平合戦」も含めて、二つの王朝の対立は熾烈を極めていたことが歴史から見て取れます。
弓削道鏡も氷上川継も本当は倭王家の関係者であったといい、渡来人王朝に卑劣な方法で失脚・殺害されています。
平将門の乱も、正当倭王家の血を引く将門が王権を奪還しようとして起きた戦争だったという見解もあります。
え~、よくあるトンデモ説じゃん。何言ってんの?と思われる方もいると思います。
私がこのように考える理由は歴史に蘇我氏が登場するあたりから始まる通史のなんとも云えぬ違和感と、いろいろ調査して判った藤原氏の矛盾です。
よく「蘇我氏が家臣の立場なのに天皇のように威張っていた」から成敗したと歴史書に蘇我入鹿殺害理由が説明されていますが、
おかしくねぇか?
だって、その後の不比等や藤原四兄弟や一族の姿をみてください。
蘇我氏と同様に、いやそれ以上に「天皇よりも威張って」いますよね。天皇を飾りにしてしまって、すっかり実権を握っていますよね。
月の満ち欠けも思いのまま
とか言ってますよね。
まぁまぁ、ちょっと調子に乗っちゃっただけでしょ。
誰でもそうなるよ、って思いますか?
しかし通史を見ても入鹿殺害以降、数多の天皇家や有力氏族の者が獄死・流罪にされてます。
天皇家関係者に疑いをかけて殺害したりしてるのって飛鳥奈良がダントツです。
元々倭国にいた氏族ならば、このような事はしないと思います。
だって「ヤマト=大和=大いなる和」だからです。
いろいろな民族の者がいるけれど、皆で共存していこうねというのが、蘇我氏が目指した国家です。
自分の利益のために相手を陥れて消していくやり方はとても大陸的です。狡猾な思考回路からも藤原氏が渡来人であった証拠になると思います。
話を戻しますが「大同一括創建問題」も、この問題に関連していると感じています。桓武天皇は史実で母が旧百済王族の出自となっていますが、亡命百済王朝の人間が即位したということは、この時点で旧王家はほぼ力を失っていたと考えられます。
大同年間に天皇となった平城天皇は経歴を見てみると「伊予親王の変」や「薬子の変」などが起きていることから、確実に桓武の実子であり百済側の人間だなと感じます。
なので平城天皇の治世に一括して寺社が創建したのではなく、唐や亡命百済王家にとって都合の悪い旧王家(蘇我氏・物部王家・秦氏)が関係している由緒の寺社を「上書き」したのだと考えます。
つまり「大同元年又は2年に創建したことにして旧王家に関する事は削除せよ」という命を下し、統一させたのです。
そうしないと藤原氏が折角改竄した様々な記録(「記紀」や他の書物)と齟齬が生じる可能性があるからです。
なんといっても「自分たちが本当は百済人である」という事実や「真の倭王家から王権を簒奪した」という事実を歴史から消したかったのだと思います。
当時の日本を囲む諸外国からは正当な倭王家とは認められていなかったようですから、いつ諸外国が「真の王家の人間=聖骨」を王として立てて侵攻してくるかもわからない訳です。
だって自分たちは偽物の倭の王家ですから。
今回の玉垣神社も縁起では大同2年(807)の創建となっておりますが、絶対にそれより前からあったと思います。
なぜならすぐ傍に古墳があるからです。
「千葉県埋蔵文化財分布地図3」より
青い丸の中にある赤丸が円墳で、並んでいるのが浅間山古墳群
実は玉垣神社のすぐ前にある道路の反対側に、古墳群があります。
「睦沢町の文化財」という書籍によれば、浅間山古墳とよばれているこの古墳群からは刀剣類・変形獣形鏡などが出土しており6世紀頃の築造と判断されています。
FloodMapにて20m海面上昇させた場合の地図
古墳がある神社というのは千葉県の神社においては「古社である」という一つの目安でもあります。しかも上の画像からもわかるように海から見える地に鎮座&古墳築造されていることも、他の古社と同様なのです。
この二点から推測すると、玉垣神社は由緒にある時代よりも古くからあると考えられます。
社名の「玉垣」の意味を深読みすると、「宝珠を守る垣根」という意味の「玉垣」ではないかと思えます。もしかしたら玉前神社の元宮で宝珠は当神社に保管されていた可能性もあるのではないでしょうか。
そしてですね、今回一番お伝えしたかったこと。
関係者の方々を非常に混乱させてしまうかもしれませんが、
私も取材に行って驚きました。
こちらの神社、
神武天皇をお祀りしていることになっていますが、
本当の御祭神
女神様でした。
スピ友と訪問したのですが境内に入ったところから男神様な感じがしなかったんですよね。
確認したら「女神様だよ」とのこと。
神倭磐余彦尊と言いつつ、上総十二社の一つである三ノ宮神社の御祭神が三毛入野命だったりすることもあり、実は崇神天皇だったりと予想していたのですが、まさか女神様だとは思いもよりませんでした。
ではこの女神様はどなたなのでしょうか?
先程紹介した古墳の名称が「浅間山古墳群」でしたね。
この古墳があった地には玉垣神社の別当となっていた弘行寺グギョウジがありました(現在は近隣に移動)。
この弘行寺、創建は天禄2年(971)ですが、山号が「玉明山」で天台宗なのです。
天台宗と言うと、これまでにもいろいろな神社との関りを書いてきました。玉垣神社も天台宗の庇護下にあったということは重要な神社であったと考えられます。
そして古墳名の「浅間山」ですが、通常浅間神社とセットになっていることを考えると、玉垣神社の御祭神が木花開耶姫である可能性があります。
百嶋神社考古学ではサクヤ姫=前玉姫です。そうすると玉前神社の御祭神説のある前玉命にもつながってきます。
では、どうしてそのような重要な神様の名前が変わってしまったのでしょうか?
考えられる可能性としては、
1.一宮玉前神社が創建され、御祭神が玉依姫とされたことで神名が伏せられていたが、十二社祭が始まった時に玉依姫と並ぶ重要な神様の名を当てた
2.奉斎していた氏族が何かの理由で入れ替わり、どの神様を祀っているのか情報が伝わらないまま、祭関係の神様の名を当てた
長い時の中で戦乱などもあった当地方、情報の断絶もあったでしょう。いろいろ調べていて感じたのは、宝珠を奉斎した氏族と、それ以前にいた氏族は別の一族だったということです。
縄文時代に埼玉の縄文人と交流のあった、又は分家にあたる一族が前玉命を奉斎していたところに、後から来た玉依姫を祀る海部族が移住してきて婚姻関係となり、一つの社でそれぞれの祖先神を奉斎したのかもしれません。
そのため玉前神社の御祭神は玉依姫だったり前玉命だったりという説が残ったのではないでしょうか。
それにしても本当に玉垣神社の境内は清々しい空間で、例えるなら鹿島神宮の森の参道を歩いてるときと同じぐらい清い地でした。
ホントに清々しい神社です。
ホント行ってほしい!
最後に境内社と板碑をご紹介。
屋根葺替記念碑
「裁判宣告書」は読み取れたのですが、
内容については苔がすごくてよくわかりませんでした
漢字が読めませんでした・・・
御輿所詰記念?
末社
賽神社・日枝神社・神名神社・八坂神社・浅間神社・大杉神社
道祖神
御手水の側にあった御神水道の石碑
鳥居の側にあった石坂改修記念の板碑
兎に角、玉垣神社は癒される神社でした~v
でも夏場は虫がすごいかもしれませんので、気を付けてくださいね。
(私が行ったのは2月でした)