茂原市モバラの地名由来 | 未知の駅 總フサ

未知の駅 總フサ

千葉県=東国は蘇我氏に縁の地であったという痕跡を探し、伝承・神社・古墳など諸々を調べています。

百嶋神社考古学にご興味を持たれた方はブックマークの「新ひぼろぎ逍遥」さんを訪ねてみてください。

昭和27年(1952)に起立。前身は茂原町で茂原町・高師村・上林村・鷲巣村・箕輪村・長谷村・内長谷村・大芝村・早野村新田・永吉村新田・小林村飛地が合併して成立。
地名はかつてこの地が広範囲の沼沢地で、美しい水草が多くの池や沼に生えていたことから「藻原」と名付けられたという。平安期には藤原黒麻呂が牧野として開拓し、藻原荘と命名した。木の茂っている原の意味であるとする説もある。「ま(接頭語)・はら(原)」の転訛で平らで広い土地を指したものか。
特色:開拓にちなんだ地名や日本武尊にちなんだ地名が多く残る。


【あ行】
●粟生野あおの
江戸期は粟生野村。里伝によれば往古山辺郡(やまべぐん)で禾生郷(あおのごう)であったという。中古に二ノ宮荘粟生野郷と称し、明治10年(1877)に山辺郡粟生野新田を合併した。地名は「あお(湿地)・の(野)」で傾斜した湿地という意味。

●芦網あしあみ
江戸期は芦網村。地名は「あす(崩れ地)・あ(水)・ま(処)」の転訛で崩れた崖のある湿地という意味。

●石神いしがみ
江戸期は石神村。地名は御神体として石を祀ってある石神神社にちなむ。

●内長谷うちながや
江戸期は内長谷村。もとは長谷村と1村であった、分村時期は不明。地名は往古「谷部郷(はせべごう)」と呼ばれていた。「ふち(縁)・はつ(端)・せ(瀬)」の転訛で川端の浅瀬のある所という意味。

●榎神房えのきかんぼう
明治22年(1889)に起立。もとは神房村で桂村・高田村と1村であった。地名は日本武尊が子ノ神社に館を造り滞在されたので「神房」というようになったという。「かみ(噛み)・ぼう(古語ほほけ)」で毛羽立つような崖の浸食地という意味。「榎」は大網白里市神房との混同を避けるため、榎の大木があったことから冠称。

●大沢おおさわ
江戸期は大沢村。地名は「おお(美称)・さわ(沢)」で浅く水が溜まり草が生えている湿地を指したもの。

●大芝おおしば
古くは大柴とも書いた。江戸期は大芝村。元は八貫野と呼ばれる地で慶長15年(1610)から開墾が始まる。当初は木崎村の者が多かったので木崎新田とも呼ばれた。また柴新田とも。地名は「おお(美称)・しば(旧河川敷)」で旧河川敷の土砂堆積地、または洪水時に冠水する場所を指したもの。

●大登おおのぼり
江戸期は大登村。古くは黒戸村と1村であったが天正19年(1591)の検知後に分村したという。地名は昔千葉一族の刑部氏が土着し大登氏と改姓して村を開拓したので、開拓者の名を採ったという伝説がある。また太閤検地の際、黒戸村と別れた時に「大登」という名になったともいう。「おお(美称)・の(野)・ほり(掘)」で降雨などにより浸食された山麓の傾斜地という意味。日本武尊が当地に仮の陣を設けたともいわれている。

●押日おしび
江戸期は押日村。地名は真名を通った日本武尊がこの地を訪れたとき、丁度陽が沈もうとしたので「惜しい日だ」と申されたことから「惜日」と名付けられたが、のちに転訛し「押日」となったという。「おし(決壊地)・ひ(水路)」で洪水で水害のあった地という意味か。

【か行】
●桂かつら
戦国期は桂の地名があった、江戸期は桂村。里伝によればもと上総村といい、慶長16年(1611)には桂郷と称していた。上桂村とも称した。往古は神房村・高田村と1村であったが、寛永10年(1633)に分村。地名は「かみ(上)・ふさ(塞)」の転訛で台地の麓の地を指したものか。または古代は海岸線が現在よりも内陸部に位置したことから「かた(潟)・うら(浦)」の転訛で水に面した崖地という意味か。

●上太田かみおおだ
江戸期は上太田村。里伝によれば往古は邑陀郷(おほたごう)と称し、下太田村と1村であった。地名は「あう(合)・た(処)」の転訛で川の合流地という意味。「上」は下太田に対するもの。

●上永吉かみながよし
江戸期は上永吉村。もとは下永吉村と1村であったが延宝4年(1676)に分村。地名は昔源頼朝が房州から鎌倉に向かう途中、当地に来て丁度昼時だったので食事をしようとしたところ箸がないので、生えていた葭をとって食事し、食後にその葭を地に挿した。それが根付き丈の高い良質の葭となったので当地は「長葭」と名付けられ、後に佳字をあてて「永吉」となったという伝説がある。「なぎ(薙)・あし(崖)」の転訛で二重に崩壊地を指したもの。

●上茂原かみもばら
明治22年(1889)に起立。もとは茂原町で当地と大字茂原に分裂。平安期は藻原荘、戦国期は藻原郷、江戸期は茂原村で上下茂原村に分けることもあり、下茂原をたんに茂原ということもあった。地名はかつてこの地が広範囲の沼沢地で、美しい水草が多くの池や沼に生えていたことから「藻原」と名付けられた。平安期には藤原黒麻呂が牧野として開拓し、藻原荘と命名した。

●萱場かやば
江戸期は萱場村。地名は昔本納の橘神社を造営したとき、御神殿の屋根を当地産の茅を使用したことに村人が感激し、村名を茅場村としたという説がある。また当初は茅葉と称したが、治承年間(1177~1180)に萱場と改めたと伝わっている。「かや(河川の蛇行地形)・ば(場所)」で南白亀川支流の蛇行地点という意味。

●川島飛地かわしまとびち
成立年代不詳。睦沢町川嶋の飛地。地名は川沿いの集落という意味。

●上林かんばやし
明治3年(1870)に起立。もと川上村・小林新田村。地名は合併した2村から1字ずつ採った合成地名。

●木崎きさき
江戸期は木崎村。地名は「きさ(浸食地形)・き(処)」で川の流れ、または水害により浸食された地という意味。

●北高根飛地きたたかねとびち
成立年代不詳。白子町北高根の飛地。地名の「高根」は台地の麓という意味。

●北塚きたづか
江戸期は北塚村新田。北塚村とも。もとは渋谷村の枝郷で寛文13年(1673)に分村。地名は本納の橘神社とその末社七十五社の人々が年に一度秋祭りに集合する祭場の大塚が村の北部にあったことから名付けられたという。

●黒戸くろど
江戸期は黒戸村。往古は大登村と1村で当時は畔戸と書いたが、天正19年(1591)の検知後に分村。その際黒戸に改めたという。地名は「くろ(削ろ)・と(処)」で浸食地を指したもの。

●国府関こうせき
江戸期は国府関村。地名は「たき(高)・さき(崎)」の転訛で傾斜地の前の地という意味か。

●小萱場こかやば
江戸期は小萱場村。小茅場・古萱場とも書いた。おそらく元は萱場と一村であったと思われる。地名については萱場の項を参照。

●小轡こぐつわ
江戸期は小轡新田村。里伝によれば寛永年中(1624~1644)に本小轡村の野地を開墾して出来た新田村で、寛文年間(1661~1673)に分村。地名については本小轡の項を参照。

●腰当こしあて
江戸期は腰当村。地名は「こし(抉じ)・あて(洪水)」で豪雨後に洪水の危険性のある川沿いの浸食地という意味。

●小林こばやし
南北朝期は小林郷、江戸期は小林村。地名は「ふる(古)・はやし(早し)」の転訛で崖のある豪雨時に水勢が増すと道が水没する所という意味か。または川の流れの早い所という意味か。

●小林飛地こばやしとびち
成立年代不詳。地名については上記を参照。

【さ行】
●猿袋さるぶくろ
江戸期は猿袋村。地名は「さる(地辷り)・ぶくろ(袋)」で河川が蛇行した袋状の地形で水が溜まりやすい地辷り地という意味。

●三ヶ谷さんがや
鎌倉期は三ヶ谷郷、江戸期は三ヶ谷村。千葉胤政の四男が三ヶ谷四郎胤広といい、その三男・胤村が下総から当地に移住し城を築いたという。三ヶ谷氏の子孫は現在宮崎姓を名乗っているという。地名は当地が源田谷・池田谷・南谷の三つから成立していることにちなむ。

●柴名しばな
江戸期は柴名村。地名は「しば(浸食地形)・な(土地)」で降雨による浸食地を指したも。

●渋谷しぶや
昔は「志歩谷」と書いた。江戸期は渋谷村。北塚村を分村し、慶長4年(1599)に下渋谷村を分村。昔は山も荒地で湿地には鉄分を含んだ柿渋色の水が流れていたので、そこから渋谷の地名がついたという。明治時代はまだ渋色の水脈が残っていて悪川に入っていたという。地名は「しぶ(行き詰る)・や(谷津)」で台地にぶつかる麓の湿地を指したもの。

●清水しみず
明治22年(1889)に起立。もとは南清水村。単に清水村と呼ぶ時もあった。地名は清水の湧き出る所があることにちなむ。

●下太田しもおおだ
江戸期は下太田村。里伝によれば往古は邑陀郷(おほたごう)と称し、上太田村と1村であった。地名については上太田を参照。

●下永吉しもながよし
江戸期は下永吉村。もとは上永吉村と1村であった。地名については上永吉を参照。

●庄吉しょうよし
鎌倉時代は二宮荘内庄吉郷、江戸期は庄吉村。地名は「しょう(沢・田・沼)・あし(崖)」の転訛で湿地のある崖地という意味。

●新小轡しんこぐつわ
江戸期は新小轡村。もとは本小轡村の枝郷で寛文年間(1661~1673)に分村。里伝によれば元は西谷と称したが後に新小轡に改めたという。現在も西谷は通称として残っている。地名については本小轡を参照。

●墨田すみだ
昭和30年(1955)に起立。もとは長南町須田の一部。古くは墨田とも書いた。鎌倉期は墨田保、江戸期は須田村。地名は斉藤遠江守の家臣で主人に従って茂原に来て当地に居を構え、村を開発した墨田五郎という武士にちなむという。地名は「す(砂)・た(処)」で砂地という意味か、低湿地を指したものか。

●千沢せんざわ
江戸期は千沢村。粟生野村から分村。地名の千は数ではなく多い事を意味し、大沼沢地であることにちなむ。

●千町せんちょう
江戸期は千町村。もと関村の一集落であったが元禄年間(1688~1704)に分村。地名は源頼朝が挙兵の準備をし、付近を見渡すと大草原で「この原野は千町歩もあるであろう」と申されたことから村人が「千町」と名付けたという里伝がある。字馬洗は頼朝が馬を洗ったところだという。

【た行】
●台田だいだ
江戸期は台田村。地名は台地上の地という意味。

●高師たかし
南北朝期は高師村、江戸期も同じ。堀越村とも称したという。地名は高市皇子の領地であったことによるとも、僧・安然の誕生の地なので高師の名が生まれたともいう。「たき(滝)・しろ(汁)」の転訛で浸食地を強調したものか。また「ほり(掘り)こし(抉じ)」でも同様に浸食を強調した地名となっている。

●高師台たかしだい
成立年代不詳。地名については上記を参照。

●高師町たかしちょう
昭和39年(1964)に起立。もと高師字観音下・蓮池・千草・鮎ノ谷・鮎ノ下・清沢・南下名・姥田・壱反台・北下名・家作、町保字西の台の一部。地名については高師を参照。

●高田たかだ
江戸期は高田村。往古は桂村・神房村と併せて1村で桂郷と称していたが、寛永10年(1633)に3村に分れた。地名は「たき(滝)だ(処)」の転訛で地すべりなどを起こしやすい要注意地名。

●立木たちき
江戸期は立木村。地名は「たち(起)き(処)」で災害などが起こった所を指したか、または「たち(小丘陵)き(処)」で小丘陵地という意味か。もの。

●中善寺ちゅうぜんじ
江戸期は中善寺村。地名は村にあった薬王山東光院中善寺にちなむ。この寺は聖武天皇の天平年間(729~749)、行基が薬師如来を掘り中善寺と命名したという。一説にこの地が比叡山延暦寺の寺領となったとき、地頭は中善寺奥羽守弘長といった記録があり、平氏の一族という。

●中部ちゅうぶ
成立年代、地名の由来ともに不詳。もと内長谷の一部。

●千代田町ちよだちょう
昭和35年(1960)に起立。もとは茂原字野牧戸・渋沢の一部、高師字新正・千尋・中峯の一部、町保字道祖神前の一部、六ツ野字高師町の一部。国鉄外房線茂原駅前再開発の市街地造成により成立。地名は長く栄える土地という願いを込めて命名した瑞祥地名。

●綱島つなしま
江戸期は綱島村。地名は地内にある綱島塚にちなむ。この塚は長慶天皇の天授6年(1380)豊栄村千田の称念寺歯吹如来第四世予阿上人が霊夢を感じ、長柄郡大東崎の海中より引き上げた仏像を称念寺に安置する為、大東崎から網で引いてきたところ、この地に来たとき綱が切断したので新規の網を造り、切れた綱を埋めた所と言われ、昔は泥深い沼であたかも島のようであったので網を埋めた島のある村という意味で「網島」と名付けたという。また字鼠谷には貝塚があり鎧や兜が埋められているという。ここは長南城の武田氏の部下が戦に敗れ自刃したところという。「鼠谷」は「寝ずに見張りをしていた所」の意味といわれていて長南城の出城の根拠とされている。

●東郷とうごう
昭和28年(1953)に起立。もとは茂原市木崎・谷本・町保・本小轡・新小轡の各一部。戦時中は海軍の飛行場で戦後農地に転用され開墾された。地名の由来は不詳。

●道表どうひょう
成立年代不詳。もと茂原字金谷町・昌平町の一部、高師字桂川・高瀬・茂原・正路川・高師・酒盛塚と石川向・川中島の一部。地名は高師にあった小字をそのまま採ったもので、同地には藤原黒麻呂の墓であるといわれている道標山がある。地名はこの山名にちなむか。

●東部台とうぶだい
成立年代不詳。もと茂原字東三貫野と南三貫野の一部、早野新田字大谷台・右之崎と吉野・菖蒲谷の一部、大芝字古歩台・大野と二大野の一部、川島飛地字沼田の一部。地名は元々は沼や水田のある低湿地であったが、茂原市街地の「東部」に位置することと、土砂で土地を高く盛り上げたことから高い土地の意味の「台」をつけたもの。

【な行】
●長尾ながお
平安期は長尾郷、江戸期は長尾村。当地には日本武尊が字市場に仮陣営を張り、井戸や竈まで作って滞在、のちに本納へ行ったという伝説が残る。地名は「なぎ(薙)・お(高所)」の転訛で崩れやすい丘陵を指したもの。

●長清水ながしみず
昭和54(1979)年に起立。もとは茂原市早野の一部。地名は早野にあった小字名を採ったもの。横に長い地域と一宮川を指した地名。

●中之郷飛地なかのごうとびち
成立年台不詳。隣接する長生村中之郷の飛地。地名は長生村高根本郷(現本郷)と北高根の中間に立地することによる。

●中の島町なかのしまちょう
昭和41年(1966)に起立。もとは上永吉・下永吉の各一部。地名は下永吉の小字名を採ったもの。「中の島」は川に囲まれた中洲という意味。

●長谷ながや
南北朝期は長屋郷、江戸期は長谷村。もとは内長谷村も含めて1村であった。地名は往古「谷部郷(はせべごう)」と呼ばれていた。「はつ(端)・せ(瀬)」の転訛で川端の浅瀬のある所という意味。

●永吉新田ながよししんでん
江戸期は永吉村新田。もとは永吉野あるいは大芝野と呼ばれる荒地で、江戸中期に永吉村民によって新田開発された。とくに下永吉村民によって開発されたので下永吉新田ともいう。地名については上永吉を参照。

●七渡ななわたり
江戸期は七渡村。地名はかつて当地は道が入り組んでおり村人は何度も道を渡って目的地に向かわねばならなかったことによるという。「なな(斜)・わだ(曲)」の転訛で傾斜した河川の彎曲部にある湿地という意味。

●西野にしの
昭和27年(1952)に起立。もとは東郷村千町の一部。地名は南吉田の一部であったことから、南吉田の中心から西にあるので西野と名付けたか。

【は行】
●萩原町はぎわらちょう
昭和38年(1963)に起立。もと上林・高師の一部。東京農業大学茂原分校の跡地。地名の由来は不詳。

●早野はやの
室町期に早野の地名があった、江戸期は早野村。維新のときに早野新田を分村。地名は昔は「茅野村」と称していたといい、茅野が早野に転訛したか。「はや(早)・の(野)」で流れの早い川の側の山麓の傾斜した平地を指したもの。

●早野新田はやのしんでん
江戸期は早野村新田。もとは三貫野と呼ばれる不毛の原野の一部で江戸中期に早野村からの入植者により開拓された。地名については早野を参照。

●東茂原ひがしもばら
昭和6年(1931)に起立。もと茂原市下永吉新田。地名はもとは下永吉村の採草地であったのを医師・細矢良三氏が村から払い下げ開墾。新しい村名は位置が茂原の東南にあるので東茂原とした。

●法目ほうめ
江戸期は法目村。里伝によれば本納村を帆丘と称していた頃、字帆埋と称していた。延宝8年(1680)分村、後に法目に改めた。地名は日本武尊の乗船していた船が難破し、その船の帆柱を埋めたので帆埋(ほうめ)と名付けたが、後に法目と書くようになったという。「ほうめ(奉免)」の転訛で官物・雑事などの賦課を免除するこという。

●本小轡ほんこぐつわ
江戸期は本小轡村。枝郷に新小轡村・小轡新田村があったが分村。村人は桓武天皇の時代、坂上田村麻呂による蝦夷討伐の折、田村麻呂が東国から率いてきた兵士が土着して村を開拓したという伝説がある。当地の森川家は田村麻呂の家臣で小轡開発当時に土着したという。また「七軒堂」という草分けの松本・藤乗・田中・石井・御須・白井・石井の7家がある。この内の藤乗家は安房郡東条村出身で、日蓮上人小松原鏡忍寺事件で真言のため身の危険を感じ姓を藤乗としたという。御須家はもと御子と書いたという。地名は田村麻呂が村人から献上された轡を「よき轡」と褒めたが、憚って「粗末な轡」の意で「小轡」と名付けたのではないかとする説、頼朝が馬を繋いだことに由来するとの説がある。「こ(接頭語)・くつ(崩)・は(端)」の転訛で崩壊地の周りという意味か。

●本納ほんのう
戦国期に本納の地名があった、江戸期は本納村。もと帆丘(ほのお)と称した。法目村を分村。戦国時代から江戸時代前期までは帆丘、江戸時代後期には本納と称していた。帆丘の由来は古く日本武尊が船で難破し、西の丘陵にその船の帆柱を埋めたことが由来となったという。その他橘神社の境内の森の形が船の帆の形に似ている所によるとも、同神社の裏の塚の形が船の帆に似ていることによるともいう。本納についてはやはり日本武尊が弟橘媛の遺品を奉納して塚を築き祀ったことから「奉納」と称していたのが転訛し「本納」となったといわれる。「ほ(秀)・の(接続詞)・う(~になっている所)」の転訛で高くなっている所という意味。

【ま行】
●町保まちぼ
江戸期は町保新田。千町野の大開発により形成された新田村の一つで、そのうち当地を含む7新田は「上総国千町新田ハ昌盛ニシテ福寿永久ヲ保ツ」という文の佳字14字をおのおの組み合わせて名付けられたという。現在JR茂原駅がある。

●真名まんな
江戸期は真名村。地名は日本武尊が東征の際この地を通り休息した折り、村人が献上した水が非常に美味であったので「これ天の真井なり」と申されたことから「真井(まない)」となり、転訛して「まんな」となり「真名」の字があてられたといわれている。尊に献上した水は東前の堰の上にある「タンタン前の清水」ではないかという説がある。「まな(接頭語)・い(川)」で一宮川を指したものか。改宗に応じず土気城主酒井氏に殺された僧侶が埋葬された上人塚がある。

●御蔵芝みくらしば
江戸期は御蔵芝村。地名は古くは「芝」であったが、戦国時代の土気城主・酒井定隆がここに農産物を収納する倉を建てたので「御蔵芝」に名を改めたという。また村人が芝だけでは物足りなかったので御蔵芝に改めたともいう。「しば」は河川沿いで大洪水時に冠水する所を指す。

●緑ヶ丘みどりがおか
成立年代不詳。もと山崎の一部。地名は響きの良い言葉を用いた現代地名。

●緑町みどりちょう
昭和47年(1972)に起立。もと早野字向宿・鷲巣の各一部。旧一宮川河川敷の埋立地跡および水田の埋立造成により完成。地名は響きの良い言葉を用いた現代地名。

●南吉田みなみよしだ
江戸期は南吉田村。粟生野より分村。地名は「あす(崩れ地)・だ(処)」の転訛で崩壊地を指したもの。「南」は粟生野の南に位置することから冠称。字馬洗は源頼朝がここで馬を洗ったことにちなむという。また字陣ガ台は頼朝が陣を張った所だという。

●箕輪みのわ
江戸期は箕輪村。地名は鎌倉期に斉藤遠江守兼綱が茂原に流刑された時、一緒にきた家臣の一人・箕輪五郎行長という武士がこの地を開発して村を造ったので、村の開拓者の名を村名に用いたという。行長はのちに出家し日延と名乗り、日蓮宗妙楽寺を創立した。

●六ツ野むつの
明治8年(1875)に起立。地名は八代将軍吉宗の頃、千町開発の責任者であった上坂安左衛門が主君・大岡越前守忠相に現況報告した一文に「上総国千町新田昌盛保福寿永久」とあり、この14文字を2寺ずつ組み合わせて七つの村名がつけられた。「上福・総寿・国昌・千盛・町保・新久・田永」の村々で、この内町保を除いた6村が合併して新しく出来た村が当村で、6村が合併したことにちなんだ地名と考えられる。

●茂原もばら
平安期は藻原荘、戦国期は藻原郷、江戸期は茂原村。地名はかつてこの地が広範囲の沼沢地で美しい水草が多くの池や沼に生えていたことから「藻原」と名付けられたという。「ま(接頭語)・はら(原)」の転訛で平らで広い土地を指したものか。

●茂原西もばらにし
成立年代不詳。地名の「西」は茂原の西に位置することから冠称。「茂原」については上記を参照。

【や行】
●野牛やぎゅう
江戸期は野牛村。地名は天平の頃(729~749)、加賀国から牛を連れてきた人が移住して、牛を放牧して村を形成したという伝説にちなむという。「の(野)・うし(憂し)」で洪水などの水害に見舞われる不安定な山麓の広い傾斜した平地という意味か。

●八千代やちよ
昭和52年(1977)に起立。もと茂原字毛無塚・川端・明光・川中島・砂押・下夕田・森ヶ下・南原の一部。地名は君が代の一節「千代に八千代に」の八千代を採ったもので、この地域の永久に栄えることを願って命名された瑞祥地名。元は沼田で湿地という意味。

●山崎やまさき
江戸期は山崎村。当地は長柄郡に囲まれた埴生郡飛地でしばしば長柄郡に所属された。地名は平地に丘陵地の端が伸びている所を「山崎」という。

●谷本やもと
古くは屋本とも書く。江戸期は谷本村。地名は「や(谷津)・もと(下)」で湿地の傍という意味か。

●八幡原やわたばら
江戸期は八幡原村。地名は八幡神社の鎮座する山麓の傾斜した平地という意味か。

●弓渡ゆみわたし
江戸期は弓渡村。地名は伝説によると源頼朝が赤目川にさしかかったとき、援軍の武将千葉常胤に弓を渡したことにちなむという。「ゆ(揺)・み(水)・わた(曲)」で洪水で水が溢れる川の彎曲部を指したものか。

●吉井上よしいかみ
明治22年(1889)に起立。もとは吉井下と吉井村と1村であったが元禄の頃(1688~1704)に分村。地名は「あす(崖)・い(川)」の転訛で崖地の川の側を指したもの。字通地は畑地と道路の間にある防風林のことを指す地名。

●吉井下よしいしも
明治22年(1889)に起立。もとは吉井村の一部。地名については上記を参照。

【ら行】
●六田台ろくただい
昭和44年(1969)に起立。もと上永吉・綱島の各一部。もとは陸田代と書いた。「陸」は「六」の意味。地名は綱島と上永吉を結ぶ陸田坂(ろくたざか)に造成された地であることにちなむ。

【わ行】
●鷲巣わしのす
南北朝期に鷲栖の地名があった、江戸期は鷲巣村。文永元年(1264)の開拓という。地名は氏神である鷲神社にちなむという。「わし(鷲神社)・の(接続詞)・す(砂州)」で鷲神社の側の砂州を指したもの。