千葉市緑区チバシミドリクの地名由来 | 未知の駅 總フサ

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千葉県=東国は蘇我氏に縁の地であったという痕跡を探し、伝承・神社・古墳など諸々を調べています。

百嶋神社考古学にご興味を持たれた方はブックマークの「新ひぼろぎ逍遥」さんを訪ねてみてください。

大正10年(1921)に千葉市として起立。古い書物には「知波能(ちばの)」と書かれている。平安期は千葉郷、鎌倉期は千葉荘であった。江戸期は千葉町。平成4年(1992)に政令指定都市となり6区ができる。
市名の由来については千葉氏の遠祖・平常将が千葉(せんよう)の蓮の花が咲く池田の池に舞い降りる天女を妻としたことから時の天皇に「千葉」という姓を賜ったという羽衣伝説、千葉忠頼が生まれた時に天より月と星の形のついた小石が降り、後にこれを見た醍醐天皇により千葉石と名付けられた霊石天降伝説によるという説、古来より原野が多く葛が繁茂していたことから生じた地名という説などがある。「つば(端)」の転訛で「台地の端」という意味か、または「つばえる(崩)」の転訛で崖、崩壊地の意味か。。またチバはもとはチハで「ちはやふる」という神にかかる枕詞の語幹で神意の強烈さをいうことから、この神を道祖とする血族集団とその居住地に付けられたという説もある。アイヌ語ではチバはチプパで船の数が多いという意味になり、これが転訛したとも。
区名は公募により決定した。言葉のイメージから名付けられた瑞祥地名。
特色:台地部分に位置し、崩壊地形を指したものが多い。



【あ行】
●あすみが丘
昭和57年(1982)土気南地区区画整理事業として東急グループにより開発。県内随一の高級住宅街となっており平成4年(1992)国土交通省の「都市景観百選」に選定された。町名は明日が見える丘という意味で名付けられた。

●あすみが丘東あすみがおかひがし
成立年代不詳。地名は響きの良い言葉を用いた現代地名。

●板倉町いたくらまち
昭和44年(1969)に起立。もとは旧土気町板倉。江戸期は板倉村。地名は往古竹河原と称したが長享年間(1487~1489)土気城主・酒井定隆が共同板庫(備蓄倉庫)を当地に建てたことから板倉と名付けられた。

●大金沢町おおかねざわちょう
昭和30年(1955)に起立。もとは旧椎名村大金沢。「おおかんざ」ともいう。江戸期は大金沢村。村名は金沢村、大金沢村、大膳野村と変わり再び大金沢村となった。地名は「おお(美称)・かね(崩壊地形)・さわ(沢)」で崩れやすい崖沿いの沢を指したもの。

●大木戸町おおきどちょう
昭和44年(1969)に起立。もとは旧土気町大木戸。江戸期は大木戸村。里伝によれば往古下総国千葉郡に属し天正中(1573~1592)に上総国となる。のち市原郡に入り元禄年中(1688~1704)山辺郡に入る。地名は「おお(美称)・きわ(際)・と(処)」の転訛で丘陵の縁部に位置することを指すか。

●大椎町おおじちょう
昭和44(1969)年に起立。もとは旧土気町大椎。室町期に大椎郷があった。大ち井郷、大志井郷、大じ井郷とも書く。江戸期は大椎村で慶長16年(1611)に村となった。地名は「おお(美称)・しい(浸食地形)」で川に浸食された地勢を指したもの。

●大高町おおたかちょう
昭和44(1969)年に起立。もとは旧土気町大高。江戸期は上総・下総国境の十文字原の南東部で「平十文字野」と称された上総国山辺郡高津戸村・大木戸村の入会秣場であった。地名は大木戸村と高津戸村の入会地であったことから昭和38年頃(1963)に両村の頭文字をあわせて命名した合成地名。

●大野台おおのだい
成立年代不詳。地名は「おお(美称)・の(野)・台(台地)」で台地の麓の傾斜地を指したもの。

●落井町おちいちょう
昭和30年(1955)に起立。もとは旧椎名村落井。江戸期は落井村。地名は川沿いの地辷りで土地が落ちる所という意味。

●越智町おちちょう
昭和44年(1969)に起立。もとは旧土気町越智。江戸期は越智村。越知とも書く。地名は「おち(落)」で崩壊地を指したもの。

●小山町おやまちょう
昭和44年(1969)に起立。もとは旧土気町小山。江戸期は小山村。地名は「お(接頭語)・やま(山)」で丘陵地という意味。

●おゆみ野
昭和59年(1984)に起立。地名は江戸時代に当地が生実藩の所領であったことにちなむ。「生実」は古代に朝鮮から渡ってきた帰化人の麻績連(おみのむらじ)が住んでいたことによるとも、寛弘年間(1661~1672)に源頼光が八剣神社へ大弓を奉納したという伝承によるなど諸説ある。「お(接頭語)・ゆ(揺)・み(水)」で洪水などの自然災害があった土地か。

●おゆみ野有吉おゆみのありよし
成立年代不詳。もとは旧生浜町有吉の一部。江戸期は有吉村。地名は「あれ(荒れ)・あし(崩れ地・崖)」の転訛で崩壊地形を指したものか。生実については上記を参照。

●おゆみ野中央おゆみのちゅうおう
成立年代不詳。地名についてはおゆみ野を参照。

●おゆみ野南おゆみのみなみ
成立年代不詳。地名についてはおゆみ野を参照。

【か行】
●鎌取町かまとりちょう
昭和30年(1955)に起立。もとは旧誉田村邊田・生浜町北生実・有吉の各一部。地名の由来は小字鎌取場台及び鎌取を採用。両小字名は中世千葉氏の秣場であった野田原が、のち奥方の化粧免となり入会野となった折、草刈に入る農民から鎌1丁につき銭6文を取り、盗み刈りする者の鎌を取り上げるなどの鎌改めを行ったことから小字名に名付けられたとも言われている。「かま(崖地・崩壊地)・とり(浸食)」で地辷りなどのあった所か。

●上大和田町かみおおわだちょう
昭和44年(1969)に起立。もとは旧土気町大和田。江戸期は上大和田村。江戸初期に下大和田村と1村であった。地名は「おお(美称)・わだ(輪処)」で地域を流れる鹿島川の大きく曲がった流路に沿って地域も湾曲していることにちなむか。

●刈田子町かりたごちょう
昭和30年(1955)に起立。もとは旧椎名村刈田子。「かったご」ともいう。江戸期は刈田子村。苅田子村・勝田子村とも書く。戦国時代に房総武田氏が侵入して稲を刈り取った所であることから名付けられたという伝承がある。地名は「かり(崖・崩壊地形)・た(高)・こ(処)」で段丘になっている崩崖地を指したもの。

●小金沢町こかねざわちょう
昭和30年(1955)に起立。もとは旧椎名村小金沢。「こかんざ」ともいう。江戸期は小金沢村。「大・小」の地名は対になっているのが常なので往時は大金沢と1村であったと思われる。地名は「かね(崩壊地形)・さわ(沢)」で崩れやすい崖沿いの沢を指したもの。

【さ行】
●椎名崎町しいなざきちょう
昭和30年(1955)に起立。もとは旧椎名村椎名崎。地名は明治9年(1876)に椎名郷駒崎村・谷津村が合併した際、郷名の「椎名」に駒崎の「崎」を合わせて椎名崎としたという説、郷名の椎名と地形が突出していることから「椎名の崎」で「椎名崎」と命名したという説がある。椎名は「しな(傾斜地)」の転訛か。駒崎は「こま(屈む)・さき(山の先端)」で疲労した傾斜地・崖地の端を指したもの。

●下大和田町しもおおわだちょう
昭和44年(1969)に起立。もとは旧土気町下大和田。江戸期は下大和田村。江戸初期に上大和田村と1村であった。地名は「おお(美称)・わだ(輪処)」で地域を流れる鹿島川の大きく曲がった流路に沿って地域も湾曲していることにちなむか。

【た行】
●大膳野町だいぜんのちょう
昭和39年(1964)の起立。もとは江戸期に内野と称した10村入会秣場で、天保12年(1841)から新開した大金沢・古市場・刈田子・椎名崎・茂呂の各一部。地名はこの入会地が椎名上・下郷と古市場の10村入会秣場で字大膳野と呼ばれていたため、この小字を採用したと思われる。生実藩有林で大膳野御林と呼んでいた。「おお(美称)・かしわ(傾)・の(野)」の変化したもので傾斜地の原野という意味か。

●高田町たかだちょう
昭和30年(1955)に起立。もとは旧誉田村高田。江戸期は高田町。地名は「たき(滝)だ(処)」の転訛で地すべりなどを起こしやすい要注意地名。

●高津戸町たかつどちょう
昭和44年(1969)に起立。もとは旧土気町高津戸。江戸期は高津戸村。地名は「たき(滝)・つ(接続し)・ど(処)」で崖地・急傾斜地・浸食地という意味。

●土気町とけちょう
昭和44年(1969)に起立。もとは旧土気町土気。戦国期に土気の地名があった。江戸期は土気町。地名は昔「峠の庄」と呼ばれていて「峠」が転訛し「トケ」となったという説、室町期に土気太郎が地頭に任ぜられてこの地を経営し地名を土気と称したという説など諸説ある。「と(峠・山の尾根や頂上、または山)・け(処)」で山または峠を指したものか。または「と(山)・ほけ(崩壊地)」で崩れやすい山を指したものか。

●富岡町とみおかちょう
昭和30年(1955)に起立。もとは旧椎名村富岡。江戸期は富岡村。富丘とも書く。地名は「とび(崩壊地形)・おか(岡)」の転訛で崩れやすい丘という意味。

【な行】
●中西町なかにしちょう
昭和30年(1955)に起立。もとは旧椎名村中西。江戸期は中西村。地名は「なぎ(薙)・にし(西)」の転訛で崩壊しやすい川の西方に位置する所という意味。

【は行】
●東山科町ひがしやましなちょう
江戸期は平山村・坂尾村・長峰村3村の入会秣場であった中峠野。地名の由来は戊辰戦争の功労として京都府下山科の郷士一同に下賜された原野に、明治9年(1876)開墾移住する際、東の山科という意味で「東山科」と命名された。

●平川町ひらかわちょう
昭和30年(1955)に起立。もとは旧誉田村平川。「ひらか」ともいい、古くは平河とも書く。江戸期は平川村。地名は往古、千葉氏家臣・平河氏の所領であったことから村名を平川に改めて名付けたと伝えられている。

●平山町ひらやまちょう
昭和30年(1955)に起立。もとは旧誉田村平山。江戸期は平山村。慶長年間(1596~1615)に遍田村を分村したと伝えられている。往古、千葉庄平山郷に属していた。天長元甲辰年(824)9月、村人により平山字谷津山(現谷津)に平山神社が勧請され、当時は神明宮と称したと記録に有ることから、平山の地名は古くから使われていたことがわかる。地名は「ひら(傾斜地)・やま(山)」で傾斜のきつい山を指したものか。

●古市場町ふるいちばちょう
昭和30年(1955)に起立。もとは旧椎名村古市場。江戸期は古市場村。地名は街道沿いに発展してきたことから昔市場が開かれていたと伝承されており、それが元となり名付けられたと思われる。

●辺田町へたちょう
昭和30年(1955)に起立。もとは旧誉田村遍田の一部。慶長年間(1596~1615)に平山より分村。地名は川辺の地という意味。

●誉田町ほんだちょう
昭和30年(1955)に起立。もとは旧誉田村野田・野田地先入会・高田十文字の区域をもって1~2丁目を設定。昭和37年(1962)に旧市津町瀬又の一部をもって3丁目を設定。地名は野田村の八幡神社御祭神・誉田別命に由来する。

【ま行】
●茂呂町もろちょう
昭和30年(1955)に起立。もとは旧椎名村茂呂。江戸期は茂呂村。江戸前期には室村とも書いた。天正3年(1575)に開村。地名は「もろ(脆」で崩壊地を指したもの。

【や行】
●小食土町やさしどちょう
昭和44年(1969)に起立。もとは旧土気町小食土。江戸期は小食土村。矢指渡村・矢指戸村・矢指土村とも書く。地名はもとは矢指土と書いたが現・旭市矢指と混同されることが度々あったため「矢指」を別の字に変えることになった。そこで地元の漢字者に相談したところ「大食の者はバンカラだが小食の者は心が優しい、いっそのこと小食と書いてやさしと読ませたらどうか」と言われ、現在の「小食」になったという。また当地で日本武尊が間食をとったことにちなむとも。「や(谷津)・さらし(曝し)・ど(処)」の転訛で湿地のある崩壊地形という意味。