粟飯原氏の謎② 阿波粟飯原氏と八倉比賣神社 前編 | 未知の駅 總フサ

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千葉県=東国は蘇我氏に縁の地であったという痕跡を探し、伝承・神社・古墳など諸々を調べています。

百嶋神社考古学にご興味を持たれた方はブックマークの「新ひぼろぎ逍遥」さんを訪ねてみてください。

徳島県立図書館から取り寄せた資料、『四国中世史研究第7号 阿波国一宮社と「国造」伝承  ―「粟国造粟飯原氏系図」を素材として―』によれば徳島県名西郡神山町に旧家粟飯原家があります。

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明治9年(1876)に当主であった粟飯原與一粲胤キヨタネにより「粟国造粟飯原氏系図」が作成されました。 これによると粟飯原家は元は天石門別八倉比賣神社の宮主でした。

八倉比賣神社は延喜式内社ですが現在論社が3つある状態です。

その3つというのは上一宮大粟神社、一宮神社、八倉比賣神社です。

 まずは上一宮大粟神社(徳島県名西郡神山町に鎮座)についてWikipediaより。

大宜都比売命 (おおげつひめのみこと)またの名を天石門別八倉比売命(あまのいわとわけやくらひめのみこと)あるいは大粟比売命(おおあわひめのみこと)としているが、史料によっては天石門別八倉比売命・大粟比売命は配祀神であるとしている。 社伝によれば、大宜都比売神が伊勢国丹生の郷(現 三重県多気郡多気町丹生)から馬に乗って阿波国に来て、この地に粟を広めたという。 『延喜式神名帳』に記載される名神大社「阿波國名方郡 天石門別八倉比賣神社」の論社の一つである。天石門別八倉比賣神社は神亀5年(728年)に聖武天皇の勅願所となり、元暦2年(1185年)には正一位の神階を授けられた。平安時代には、現在の徳島市一宮町に当社の分祠として一宮神社が創建された。 明治3年(1870年)、社名を「埴生女屋神社」と改められたが、氏子の請願により、明治28年(1895年)に現在の上一宮大粟神社となった。

大宜都比売神が伊勢国丹生の郷から馬に乗ってやってきたという伝承を利用して埴生女屋ハニュウメヤ神社と改称することで御祭神隠しを目論んだ人達がいたのでしょうね

。氏子さん達の働きで元の名称に戻って本当によかった。

次に一宮神社(徳島県徳島市一宮町に鎮座)についてWikipediaより。

大宜都比売命・天石門別八倉比売命を祭神とする。 鎮座地は徳島市の西部で、周辺は「一宮町」という地名になっており、東方にある山の頂上にはかつて小笠原氏の「一宮城」という城があった。神社の前には四国八十八箇所十三番札所の大日寺があり、神仏習合の時代には一体化していた。元々は上一宮大粟神社(名西郡神山町)が阿波国一宮であったが、参拝に不便であるため平安時代後期に国府の近くに分祠が作られ、こちらが一宮となったと伝えられる。

分祀であったと記録が残っていても経緯を見ると判断が難しいですね

。 最後に八倉比賣神社(徳島県徳島市国府町矢野に鎮座)もWikipediaより。

八倉比売命 - 天照大神の別名であるとする。 創建の年代は不詳であるが、社伝には天照大神の葬儀の様子が記されている。はじめは杉尾山に連なる気延山の山頂にあったが、後に気延山南麓の杉尾山に鎮座した。安永2年(1773年)に書かれた文書には、鎮座から2150年と記されており、逆算すると紀元前378年(孝安天皇15年)となる。 承和8年(841年)に正五位下の神階を授けられ、元暦2年(1185年)に最高位の正一位となった。江戸時代には阿波国を治めた蜂須賀氏が当社を崇敬した。寛保年間(1741年 - 1743年)に杉尾大明神と称し、明治3年(1870年)に現社名に改めた。

3つの神社の御祭神から見ると 大宜都比売命=天石門別八倉比売命=大粟比売命=天照大神 ということになります。

 ですが私的には八倉比売命を天照大神の別名としているのは真実を知られたくない人達による改竄だと考えます。

 なので、 大宜都比売命=天石門別八倉比売命=大粟比売命 として考えていきます。

 3つの論社からみると阿波粟飯原氏は大宜都比売命を奉斎する一族であったようです。

 

次に「粟国造粟飯原氏系図」を見ていきましょう。 3-1.jpg

系図の詳細です(カッコ内は神名の添書きです)。

「粟国造粟凡直粟飯原氏系図」

 伊邪那岐神・伊邪那美神

 撞賢木厳之御魂天疎向津比賣命

(亦御名天照大日孁貴命 亦名天照大御神 亦云天照坐皇大御神 亦名大日孁貴命 亦云豊日孁命 此者洗給左御目之時所成神也掛巻茂畏岐 天皇之御祖)

 ↓

月夜見命

 (亦御名健速須佐之男命 亦云神速須佐之男 亦云勝速日命 亦云熊野加武呂命 亦云熊野加夫呂岐櫛御気野命 亦名速須佐良命 此者洗給右御目之時所成神也 粟国造粟凡直等此大神之御末系也)

 ↓

八嶋士奴美神

(亦御名清之繋名坂軽彦八嶋午神 亦云清之湯山主三名挟漏彦八嶋篠神 亦云清之湯山主三名挟漏彦八嶋野神 亦云八束水臣津野神 亦云淤美豆奴神 此者御合稲田比賣命而所生所生之神也)

 ↓

 天之冬衣神

(亦云 天葺根神)

 ↓

 大国主神

(亦御名大名牟遅神 亦云国造大三貴神 亦名葦原醜男神 亦名八千矛神 亦名宇都志国玉神 亦名大地主神 亦名大名持神 御母刺国大之神之女刺国若比賣命□大国御魂神 亦云大国主神此者坐倭神社大国主神之荒魂神也 大物主櫛甕玉命亦大物主神此者坐大三幹神社大国主神之和魂也)

 積羽八重言代主神

 (亦云天事代主神 亦云都波八重事代主神 御母身形之辺津宮坐多岐津比賣命 故言代主神者粟国造粟凡直等之祖也)

 

后神 粟国魂大宜都比賣神

 (亦御名大阿波女神 亦阿波女神 亦云阿波波神 亦云阿波神 亦御名天津羽羽神 亦名天石門別八倉比賣神 亦御名天石門別豊玉姫神 亦名天津石門別稚姫神 亦云稚日女命 亦名栲幡千々姫命 亦名天御梶姫命 故大宜都比賣者天之御中主神之子 皇産霊神之子 角凝魂命之子 天午刀男神之女 粟国造粟凡直等所産神是也 今名西郡神領村大粟山上一宮大明神也)

百嶋神社考古学をベースに解釈していくと イザナギ・イザナミの御夫婦。

 撞賢木厳之御魂天疎向津比賣命=大日孁貴命=卑弥呼。

なぜか豊受大神の名もあります、目眩まし?

 月夜見命=スサノオ。 月夜見命=大山祇命の娘・神大市姫の夫であるスサノオが名を継承してるということは「月夜見」も役職名の一つでしょうか。

天兒屋根命はスサノオの娘・豊受大神と結婚しているので次に名を継いだ可能性はあります。 八嶋士奴美神=大国主=ナガスネヒコ。

天之冬衣神=大山咋。 「大国主」・「事代主」も役職名で継承する名称だと考えてます。

この添書きにはどうやら代々その役職についていた方々の事がまとめて書かれているようです。

例えば大宜都比賣ですが豊玉彦(天太玉)の姉・アカル姫=大宜都比賣です。

 でも「天午(=手?)刀(=力?)男神之女」とあるので天手力男の娘とすると市杵島姫か豊受大神です。 しかし積羽八重言代主神の添書きに「御母身(=胸?)形之辺津宮坐多岐津比賣命」とあるので積羽八重言代主神の母は市杵島姫か鴨玉依姫になります。

 おそらくダンナが「事代主」職を務めているとヨメの名が添書きに入っているんですね。

 そうすると「大宜都比賣」の記述からは判るだけでアカル姫・市杵島姫・豊受大神・豊玉姫・鴨玉依姫・活玉依姫・栲幡千々姫・下照姫の名が出てくるので、「事代主」はスサノオ・ナガスネヒコ・大山咋・大直根子・アジスキタカヒコネ・天兒屋根が着任したということに。

全部で八代いたから「八重事代主」なのでしょう。

引き続き系図に戻ります。

次は御祖略系に続いています。

御祖略系

天之御中主神

 皇産霊二大神

 ↓

 角凝魂命

↓ 天午刀男神

↓→天日鷲神

↓ (粟忌部之祖式内麻植郡忌部神社)

↓  ↓→大麻比古神(式内板野郡大麻比古神社)

↓  ↓→長白羽神

↓  ↓→天羽槌雉神

↓ 

↓→天鈴杵命→天御雲命→天村雲命→天波與命

↓ (式内麻植郡天村雲伊自波庭比賣神社仁座)

↓→許登能麻遅比賣命

↓→大阿波女神

上の図でわかるでしょうか?(汗)

天午刀男命の裔が天日鷲神・天鈴杵命・許登能麻遅比賣命・大阿波女神です。

そして天日鷲神の裔が大麻比古神・長白羽神・天羽槌雉神です。

 まずは天之御中主神=白山姫。

皇産霊二大神=神皇産霊尊(大幡主)と高皇産霊尊(高木大神)。

 角凝魂命=天常立尊=白山姫。

 天午(=手?)刀(=力)男命=スサノオ。

先に天午刀男神の裔から。

 天日鷲命は後回しにして、先に天鈴杵命(事代主・大直根子)→天御雲命(天香山・高倉下)→天村雲命→天波與命。

 許登能麻遅比賣命(神俣姫)。

大阿波女神(アカル姫)。

 まず天鈴命=大直根子(大田田根子)で母が市島姫でスサノオの孫。

神俣姫はスサノオの同母姉で、アカル姫は嫁です。

次に天日鷲神の裔。

大麻比古神=天太玉=豊玉彦。

 長白羽神=天白羽鳥で別名・天八坂彦命=天物知命で建南方の嫁・八坂刀売の父なので天忍日です。

天羽槌雉(=雄?)神=武葉槌命=木花咲耶姫。

サクヤ姫は天日鷲神のキョウダイもしくは嫁だったので(判然としないのですが)ここに名があるのだと思います

。 ここまでを振り返ると系図は代表的な先祖を抜粋して列記してあるようです。

 もしかしたら代々の一族のリーダーの名を連ねてあるのかも?

天日鷲神については後編で。