印西市インザイの地名由来 | 未知の駅 總フサ

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千葉県=東国は蘇我氏に縁の地であったという痕跡を探し、伝承・神社・古墳など諸々を調べています。

百嶋神社考古学にご興味を持たれた方はブックマークの「新ひぼろぎ逍遥」さんを訪ねてみてください。

平成8年(1996)に印西市となる。平成の市町村合併により同22年(2010)印旛村・本埜村を編入合併。
地名にはないが「千葉ニュータウン」は当市にある。
印西という地名は鎌倉期からあり、当時国衙領であった。【和名抄】の印旛郡が平安後期に二分されて成立した中世的郡郷で、東西に分けた西部にあたることから印西郷とも、印西荘ともいわれた。印旛はもとは「いなば」と読み、「いな(砂)・ば(処)」で砂のある所という意味。
印旛村は印旛沼、または郡名を採ったもので「いなば」の転訛で砂地という意味。
本埜村は合併した本郷村・埜原村(やわらむら)から一字ずつ採った合成地名。
特色:利根川と印旛沼に囲まれた地であり、湿地や浸食地を指した地名が多い。


【あ行】
●相嶋あいじま
元旧印西市。明治22年(1889)に成立。もとは江戸期にあった相島新田の飛地で字六軒堤根南・六軒堤根北。地名の「相島」は当地に勢力のあった相馬氏の「相」と豊島氏の「島」とをあわせた合成地名。

●安食卜杭あじきぼっくい
元本埜村。明治43年(1910)に起立。寛文年間(1661~1673)に安食村卜杭野を開発して安食卜杭新田が成立。地名は「あし(崖)・き(処)」で崖地という意味。「卜杭」は「傍杭」で境界を示す傍示戸があったことから名付けられたか。

●泉いずみ
元旧印西市。和泉とも書く。江戸期は和泉新田と称し、もと小金牧のうち印西牧の一部。寛文10年(1670)に惣深新田開発請負主・鰭ヶ崎(ひれがさき)村清重郎らが、それまで入会であった草深野の一部を対立緩和のため近隣16か村に分与した。それを和泉村が開発。地名は親村が和泉村であることを表したもの。

●和泉いずみ
元旧印西市。泉と区別するため「わいずみ」とも言われる。江戸期は和泉村。地名は「いず(出)・み(水)」で湧泉地という意味。

●和泉屋いずみや
元本埜村。寛文年間(1661~1673)笠神村立野原を開発して成立。地名は新田開発を請負った町人の屋号によるものと考えられる。

●岩戸いわと
元印旛村。江戸期は岩戸村。地名は「いわと(岩処)」で岩の多い地という意味。

●岩戸干拓いわとかんたく
成立年代不詳。地名は岩戸の項を参照。

●内野うちの
成立年代不詳。元は多々羅田の一部であったか。地名は「うち(打ち)・の(野)」で降雨により浸食された台地の傾斜地を指したもの。

●浦幡新田うらはたしんでん
元旧印西市。享保年間(1716~1736)に印西牧の一部を浦部・白幡両村が請負って持添新田として開発。地名は親村である2村から一字ずつ採った合成地名。

●浦部うらべ
元旧印西市。江戸期は浦辺村。浦部村とも書く。地名は「うら(水辺)・へ(辺)」で手賀沼のほとりという意味。

●浦部村新田うらべむらしんでん
元旧印西市。浦辺村新田とも書く。享保改革期の幕府の年貢増徴政策の一環として、延享・寛延期に推進された流作場新田のひとつ。当新田は浦辺村の村請によって開発。

●大塚おおつか
成立年代不明。地名は「おお(美称)・つか(小高い所)」で小高くなっている土地を指したもの。

●大廻おおば
元印旛村。「おおはさま」ともいい、大迫とも書く。江戸期は大廻村。地名は「おお(美称)・はさま(狭間)」で狭い谷のある地形を指したもの。

●大森おおもり
元旧印西市。鎌倉期は大森郷、江戸期は大森村。明治7年頃(1874)に合併した大森新田はもと小金牧のうち印西牧の一部で「古新田」と通称される。地名は「おお(美称)・もり(捥)」で川岸の決壊しやすい所という意味。または「もり(杜)」で神社の聖域を指したものか、当地には創立年代不詳の火皇子神社(ひのおうしじんじゃ)が鎮座している。

●小倉おぐら
元旧印西市。室町期は小倉村、江戸期も同じ。地名は「お(接頭語)・くら(刳)」で谷地形を指したもの。

●小倉台おぐらだい
成立年代不詳。地名はもと小倉の地域であったのなら、旧地名を冠し現代地名に多い「台」を語尾につけたものか。

●押付おしつけ
元本埜村。江戸期は押付新田。笠神埜原新田に属した。寛文年間(1661~1673)下利根川掘割工事の際、相馬郡押付村の一部が河川敷となり、代替地として笠神村御立野原を開発して成立。地名は相馬郡押付村民が移住し開発したことにちなむ。「おしつけ」の由来は利根川の水流が土地に激しくあたる為に川崩れを起こしていたところを指したものか。

【か行】
●鹿黒かぐろ
元旧印西市。江戸期は鹿黒村。明治7年頃(1874)に合併した鹿黒新田は江戸期から続く村で、もと小金牧のうち印西牧の一部。地名は「かく(欠)・くろ(削ろ)」で崖が崩壊する常習地であったか。また蘇我入鹿が殺された時、その縁者が入鹿の首を携えて当地に到着し、首を葬り居住したことによるとする伝説がある。

●笠神かさがみ
元本埜村。笠上とも書く。南北朝期に笠神の地名があった、江戸期は笠神村。地名は「かさ(高台)・かみ(噛み)」で浸食されている高台を指したもの。

●鎌苅かまがり
元印旛村。「がまかり」ともいい蒲刈・釜狩とも書く。江戸期は鎌苅村。地名は「かま(崩壊地形)・かり(古語カリンケで刈除け)」で崩壊地という意味を強調したもの。

●鎌苅干拓かまがりかんたく
成立年代不詳、地名の由来については鎌苅の項を参照。

●亀成かめなり
元旧印西市。江戸期は亀成新田。寛文11年(1671)江戸町人を中心として手賀沼の新田開発が始まり成立。明治7年(1874)に亀成新田と宝田新田が合併して亀成村が成立。地名は「かめ(噛め)・なり(~になっている所」で浸食地を指したもの。

●川向かわむかい
成立年代、地名の由来ともに不明。

●木下きおろし
元旧印西市。昭和32年(1957)に起立。もと大字竹袋(たけふくろ)の一部。竹袋はもと竹袋村で、別所村・平岡村・小林村・宗甫新田と合併し明治22年(1889)に木下町となった。地名は旧木下町にちなむ。木下は材木を河岸から運び出したところであったことによるとする説、永徳3年(1383)に竹袋稲荷神社を造営の際、里見家より良木が寄進され、その木材が当地の河岸についたことによるとする説があるが未詳。「き(処)・おろし(崖)」で崖地という意味か。

●木下東きおろしひがし
成立年代不詳。地名の由来については木下の項を参照。

●木下南きおろしみなみ
成立年代不詳。地名の由来については木下の項を参照。

●木刈きかり
成立年代不詳。地名は「き(処)・かり(刈り取ったような崖)」で崩壊地形を指したもの。

●行徳ぎょうとく
元本埜村。江戸期は行徳新田で笠神埜原新田に属した。寛文年間(1661~1673)に開発されて成立。地名は山伏の金海法印が当地に神明社(現豊受神社)を創建したことから、村人が徳のある行者の意味で山伏を行徳様と呼んだことにちなむという。

●結縁寺けつえんじ
元旧印西市。江戸期は結縁寺村。地名は行基の創建と伝える結縁寺の寺院名による。

●高西新田こうさいしんでん
元旧印西市。江戸期は高西新田村。浦辺村と白幡村が共同で享保年間(1716~1736)に印西牧の一部に浦幡新田を開発していたが、再び共同で持添新田として当新田を開発。地名は西に位置する台地上の土地を表したもの。

●荒野こうや
元本埜村。江戸期は荒野村。地名は「たき(高)・や(谷)」の転訛で崖のある湿地という意味。

●小林こばやし
元印西町・本埜村。江戸期は小林村。明治初年(1868)に西小林新田を合併。旧本埜村域は江戸期は小林新田。寛文年間(1661~1673)に小林村の埜地を同村が開発して成立。地名は「ふる(降る)・はやし(早し)」の転訛で川の氾濫時に浸水しやすい崖地という意味か。または川の流れの早い所という意味か。または「はやし(旧河川跡)」で元将監川の流路で地盤が脆弱な地という意味か。

●小林北こばやしきた
成立年代不詳。地名はJR成田線小林駅の北側に位置することによるか。

●小林浅間こばやしせんげん
成立年代不詳。地名は地域にある浅間山によるか。

●小林大門下こばやしだいもんした
成立年代不詳。地名は旧印西町小林字大門下か。同地の高台に所在する専念寺の門下という意味の地名か。

【さ行】
●酒直卜杭さかなおぼっくい
元本埜村。江戸期は酒直卜杭新田。寛文年間(1661~1673)に酒直村の埜地を同村が開発して成立。現在は長門川により栄町酒直と分断されているが、元は地続きで後に川の流路が変化したものか。地名は「さか(坂)・なほ(ナミハの転)」で平坦地の端にある急傾斜地を指す。「卜杭」は棒杭が変化したもので元は原野であったので境界を示す傍示杭があったことに関係するか。

●桜野さくらの
元本埜村。平成22年3月23日に成立。寛文年間(1661~1673)に成立した松虫村(現印西市松虫)の持添新田で飛地となっており、同名であったため合併に伴い桜野に変更。地名の由来は不詳。

●佐野屋さのや
元本埜村。江戸期は佐野屋新田、笠神埜原新田に属した。寛文年間(1661~1673)笠神村御立野原を開発して成立。地名は新田開発を請負った町人の屋号によるものか。

●下井しもい
元本埜村。江戸期は下井新田、笠神埜原新田に属した。寛文年間(1661~1673)笠神村御立野原を開発して成立。地名は本村の笠神村からみて下手に位置する長門川沿いの地という意味。

●下曽根しもぞね
元本埜村。江戸期に下曽根新田がみえ、笠神埜原新田に属す。寛文年間(1661~1673)笠神村御立野原を開発して成立。地名は本村の笠神村からみて下手に位置する岩の多い土地、瓦礫地という意味。

●将監しょうげん
元本埜村。江戸期は将監新田、笠神埜原新田に属した。寛文年間(1661~1673)笠神村御立野原を開発して成立。地名は新田開発の請負人名によるものか。

●白幡しらはた
元旧印西市。江戸期は白幡村。白畑村とも。地名は「しる(汁)・はた(端)」の転訛で湿地の端という意味。

●甚兵衛じんべえ
元本埜村。江戸期は甚兵衛新田、笠神埜原新田に属した。寛文年間(1661~1673)笠神村御立野原を開発して成立。地名は新田開発の請負人名によるものか。

●瀬戸せと
元印旛村。江戸期は瀬戸村。地名は「せと(狭処)」で印旛沼に挟まれた狭い谷間を指したもの。

●浅間前せんげんまえ
元旧印西市。江戸期は浅間前新田、江戸前期からの手賀沼開墾により成立した新田村。地名は浅間社にちなむ。

●草深そうふけ
元旧印西市。江戸期は惣深新田、もと小金牧のうち印西牧の一部、草深野(惣深原)。地名は「くさ(臭)・ふけ(湿地)」で草が腐るような水気の多い湿原という意味。

●惣深新田飛地そうふけしんでんとびち
元本埜村。成立年代不詳、地名については草深を参照。

●宗甫そうほ
元旧印西市。「壁無」とも称した。江戸期は宗甫新田。もと小金牧のうち印西牧の一部。一帯は惣深野と呼ばれ惣深新田開発請負主・鰭ヶ崎(ひれがさき)村清重郎らが近隣村との対立を避けて一部を16村に分与。宗甫組と称された当新田はその一つ。明治22年(1889)に大字宗甫となるが大正末期頃まで宗甫新田と称した。地名は江戸期に開発された新田の開発主名による。

【た行】
●高花たかばな
成立年代不詳。元は草深と結縁寺の一部か。地名の由来ともに不詳。

●滝たき
元本埜村。江戸期は滝村。地名は「たき(崖)」で崖地・急傾斜地・浸食地を指したものか、または「たき(滾)」で往古水が噴き出し滝のように流れていたことにちなむか。

●滝野たきの
成立年代、地名の由来ともに不詳。元は草深の一部か。

●竹袋たけふくろ
元旧印西市。江戸期は竹袋村。もと竹渓村で元和2年(1616)から竹袋村となったともいう。地名は「たき(滝)・ふくろ(袋)」の転訛で崖地・急傾斜地・浸食地の行き止まり地形を指したもの。

●多々羅田たたらだ
元旧印西市。江戸期は多々羅田村。享保年間(1716~1736)に開発された切添新田にあたると思われる。地名は古代製鉄法を用いる鍛冶師集団がいたことによるか、または「ただ(爛)・ら(場所)」の転訛で過去に土砂災害があり、今後も発生する危険がある土地という意味か。

●立埜原たてやわら
成立年代不詳。地名は寛文年間(1661~1673)に笠神村御立野原であったことによるか。

●中央北ちゅうおうきた
成立年代、地名の由来不明。

●中央南ちゅうおうみなみ
成立年代、地名の由来不明。

●造谷つくりや
元印旛村。作屋・作谷とも書く。江戸期は造谷村。地名は「すき(剝)や(谷)」の転訛で湿地の浸食地という意味か。

●つくりや台
成立年代不明、地名については造谷を参照。

●角田つのだ
元本埜村。江戸期は角田村。地名は「つの(募)・だ(処)」で高くなった所という意味か。

●戸神とかみ
元旧印西市。江戸期は戸神村。享保年間(1716~1736)に開発された切添新田にあたると思われる。地名は「と(山)・かみ(上)」で台地上の土地を指したもの。

●戸神台とかみだい
成立年代不詳。地名については上記を参照。

【な行】
●中なか
元本埜村。大正2年(1913)に成立。旧埜原村中根が旧本郷村中根と区別するために改称して成立。江戸期は中根新田で中根村の持添新田であった。地名は「なぎ(薙)・ね(麓)」で印旛沼の水流などにより浸食される地という意味か。

●中田切なかたぎり
元本埜村。明治43年(1910)に成立。もとは中田切新田。寛文年間(1661~1673)下利根川掘割工事に伴い相馬郡中田切村(現茨城県北相馬郡利根町中田切)の一部が河川敷となったため代替地として笠神村御立野原を開発し成立。地名は「なぎ(薙)・た(処)・きり(切)」の転訛で川沿いの増水時に浸食されやすい地を指したもの。

●長門屋ながとや
元本埜村。明治43年(1910)に成立。もとは長門屋新田。寛文年間(1661~1673)笠神村御立野原を開発し成立。地名は新田開発を請負った町人の屋号によるもの。

●中根なかね
元本埜村。江戸期は中根村。地名については中を参照。

●西の原にしのはら
成立年代、地名の由来ともに不詳。

【は行】
●萩埜はぎの
元本埜村。平成22年(2010)3月23日に成立。地名はもと萩原であったのを合併の際、旧印旛村に同名地名があったことから旧本埜村の「埜」を用いて萩埜に変更。江戸期は萩原新田。寛文年間(1661~1673)に成立した萩原村の持添新田。地名は「はぎ(剥)・はら(原)」で崖地のある平地という意味。

●萩原はぎわら
元印旛村。江戸期は萩原村。地名については上記を参照。

●萩原干拓はぎわらかんたく
成立年代不詳。地名については萩埜を参照。

●原はら
成立年代、地名の由来ともに不詳。

●原山はらやま
成立年代、地名の由来ともに不詳。

●東の原ひがしのはら
成立年代、地名の由来ともに不詳。

●平岡ひらおか
元印西市。江戸期は平岡村。地名は丘陵のある傾斜地という意味。

●平賀ひらか
元印旛村。室町期は平賀村、江戸期も同じ。東岸の成田市に対する方向に花島山(はなじまやま)と呼ばれる丘があるが、これは「離島はなれじま」の転訛だという。地名は口碑によれば印旛国伊都請利命が公津から上陸し当地を開拓したとの意味で名付けられたという。「ひら(崖)・か(処)」で崖地という意味。

●平賀学園台ひらかがくえんだい
成立年代、地名の由来ともに不詳。

●平賀干拓ひらかかんたく
成立年代、地名の由来ともに不詳。

●船尾ふなお
元旧印西市。鎌倉期に「ふなを」の地名があった、江戸期は船尾村。「和名抄」の船穂郷の遺称地か。地名は「はな(端)・ほ(秀)」の転訛で突き出した土地の端という意味か。

●別所べっしょ
元旧印西市。江戸期は別所村。地名は「へし(圧し)」の転訛で崩壊地形を指したもの。

●発作ほっさく
元旧印西市。江戸期は発作新田。地名は新開地であったので開発して作られた土地の意味で「発作」が充てられた。

●堀の内ほりのうち
成立年代不詳。隣接する八千代市堀の内の一部であったと思われるが、印西市に組み入れられた経緯は未詳。地名は付近の台地から堀之内式土器が多数発見されていることと、埋立地である当地が中央排水路と印旛放水路に挟まれていることによる。

【ま行】
●舞姫まいひめ
元旧印西市。成立年代不詳。地名は松虫姫伝説にちなむか。

●牧の木戸まきのきど
成立年代、地名の由来ともに不明。

●牧の台まきのだい
成立年代、地名の由来ともに不明。

●牧の原まきのはら
成立年代、地名の由来ともに不明。

●松木まつき
元本埜村。江戸期は松木新田。寛文年間(1661~1673)下利根川堀割工事の際、相馬郡松木村(現茨城県北相馬郡利根町)の代替地として笠神村御立野原を開発して成立。地名は「まつ(曲)・き(処)」で利根川の曲流部にあたる地という意味。

●松崎まつざき
元旧印西市。江戸期は松崎村。地名は「まつ(曲)・さき(山の先端)」で新川の曲流部に位置する山の突き出した所という意味。

●松崎台まつざきだい
成立年代不詳。地名については上記を参照。

●松虫まつむし
元旧印旛村。江戸期は松虫村。地名は聖武天皇の皇女・松虫姫が当地に療養にきたという伝説にちなむ。

●美瀬みせ
成立年代、地名の由来ともに不詳。

●みどり台
成立年代、地名の由来ともに不詳。

●武西むざい
元旧印西市。江戸期は武西村。明治7年(1874)に安養寺村を合併。地名は「たけ(高)・にじ(崩壊地形)」の変化したもので台地の崩壊を指したもの。

●武西学園台むざいがくえんだい
成立年代、地名の由来ともに不明。

●本埜小林もとのこばやし
元本埜村。平成22年3月23日に成立。地名はもと小林であったのを本埜小林に変更。江戸期は小林新田。寛文年間(1661~1673)に小林村の埜地を開発して成立。地名については小林を参照。

●物木ものき
元本埜村。室町期は物木村、江戸期も同じ。地名は「まま(崖)・き(処)」の転訛で崖地という意味。

●師戸もろと
元印旛村。諸戸とも書く。江戸期は師戸村。地名は「もろ(脆)・と(処)」で崩れやすい自然堤防を指したもの。

【や行】
●山田やまだ
元印旛村。江戸期は山田村。地名は「やま(山)・だ(処)」で山のある地という意味。

●山田干拓一区やまだかんたくいっく
成立年代、地名の由来ともに不詳。

●山田干拓二区やまだかんたくにく
成立年代、地名の由来ともに不詳。

●山平やまひら
成立年代、地名の由来ともに不詳。

●山平一区やまひらいっく
成立年代、地名の由来ともに不詳。

●山平二区やまひらにく
成立年代、地名の由来ともに不詳。

●吉田よしだ
元印旛村。江戸期は吉田村。地名は「あし(崖)・だ(処)」の変化したもので崖地を指したもの。

●吉田干拓よしだかんたく
成立年代不詳。地名については上記を参照。

●吉高よしたか
元印旛村。平安期は吉高郷、江戸期は吉高村。地名は「あし(崖)・たか(高)」の変化したもので崖地と丘陵を指したもの。地名の「あし」は「悪し」に通ずるのを嫌い「吉」に変更されている場合が多い。

【ら行】
●竜腹寺りゅうふくじ
元本埜村。竜福寺村とも書く。江戸期は竜腹寺村。中根村から分村。地名は大同2年(807)創建と伝える竜腹寺の寺院名にちなむ。寺伝によると天平年間(729~749)雨乞いをした際に現れた龍が大空で死に、その腹が落ちた地であったことから名付けられたという。ほかに頭が落ちた龍角寺(印旛郡栄町)、尾が落ちた龍尾寺(匝瑳市)がある。

【わ行】
●若萩わかはぎ
成立年代、地名の由来ともに不詳。