シリーズ戦争

『子どもたちが綴った戦争体験 1 勝ってくるぞといさましく──日中戦争開戦』

村山四郎 


『市役所の小使いさんが、

 にこにこしながら赤い紙を置いて行きました。』


戦禍の子どもたちは、何を見て、何を思ったのか。日中戦争開戦当時の子どもたちの作文などをもとに、戦争を考える一冊。



「新しい兵士たちを戦場に送り出す出征式が毎日のように各地でもたれました。子どもたちも『バンザイ!バンザイ!』と歓喜して見送りました。」


「『がんばってはたらいてこい』とまるで出稼ぎにでも送り出すような気持ちだったのかも知れません。」

-p. 9 


「現代なら、自分のお父さんが死なないで帰ってきてほしいと願うことは、家族であればあたりまえの感情です。でも戦争中は『名誉の戦死』ということばがありました。明治政府は軍隊の創設と共に兵士に天皇の軍隊であるという自覚を徹底的に教育し、天皇の名において『軍人勅諭』を発布して、戦場で死ぬことが天皇への最高の忠義であり名誉であると教育たのです。だから『死なないで帰ってきてほしい』とは言えなかったのです。」

-p. 16


「日本の大新聞は、報道陣を前線に派遣して、報道合戦をくりひろげました。国民を、『いつ南京は陥落するか』『南京城一番乗りの誉の部隊はどこか』などとあおりたてました。」


「南京陥落のニュースが伝わると、国民は熱狂して迎えました。全国各地で旗・提灯行列が行われ、東京では40万人が参加したと言われています。」


「上海から南京に進軍してしていった中でおきた日本軍の掠奪・殺人・強姦や、南京での残虐行為については、当時、日本の国民にはほとんど知らされませんでした。」

-p. 33


「日中戦争がはじまると、子どもたちは学校に行っても、家に帰っても、戦争のニュースをに一喜一憂するようになります。そして、毎日のように、校長先生から『教室を戦場と思え、鉛筆や筆を銃剣と思え』と激励を受けるようになります。そして『僕等もそのつもりで勉強しています』と思うようになります。」

-p. 41


「子どもたちは日本が強国であることを疑っていませんでした。『日本人はみんなヤマトダマシイがあるから、決してまけることなんかない。それに日本は神さまの国だからだ』と信じていたのです。そして、多くの子どもたちは、『今に僕たちもきっと兵隊さんのようになって、お国のためにつくそう』と胸に刻んでいきました。」

-p. 43


「子どもたちの作品には、中国人や朝鮮人。そしてアジアの人々への差別意識が当たり前のように書かれています。この中国人や朝鮮人ねの差別意識は、戦後も根強く残りました。」

-p. 45


「子どもたちは、いろんな疑問があっても、学校では『君たちは、みな満州に行きたいか』と聞かれたら、『行きたいです』と答えるものだと訓練されていった」

-p. 52


「満州への移民に参加しようと決断した背景には、国民の生活の貧しさがあったのです。」

-p. 54


「戦争体験と言うと、広島、長崎への原爆投下をはじめ、シベリア勾留体験など、ともすると被害体験のようになりがちな気がする。しかし、なぜそうなったのか、本当の原因はなんだったのか、責任はどこにあるのか、を私たちは考えなければいけないと思う。日本人は被害者ではなく、加害者であったことを決して忘れてはいけないと私は思う。」

-p. 63 平松伴子さんの手記





戦争と平和について子どもたちと考えたいと思い、借りてきたが、読み聞かせたり、一緒に読んだり、解説したりしていると、涙がじわり。


「赤紙」を楽しみに待ち、「赤紙」が来たことを喜ぶ兄や、「バンザイ!バンザイ!」と、兵隊さんを笑顔で送り出す近所の人たちの様子に、


「何が嬉しいの?」

「なんで笑ってるの?」


と尋ねて来る子どもたちを見てホッとする。

その「当たり前」の感覚をなくさないで生きていってほしい。


戦争に行って人を傷つけたり、殺したりしたい人がいるだろうか。戦争で大切な人を失いたい人がいるだろうか。戦争で家を焼かれたい人がいるだろうか。


戦争をする、戦争を続けると決める人たちは、自分や自分の身の回りは「大丈夫」だと思っているからこそ、戦争をしたがるのではないか。戦地へ行くのは自分たちではないから、非道なことを決めるのではないか。


「上」の人、強い人からこうと言われたら、疑問に思っていても口に出せない、周囲を気にして同調する国民性は、特高や隣組に常時見張られていたこの頃に「つくられた」のではないかと思ったりもするが、コロナ禍における「マスク警察」、「自粛警察」などは完全にその流れをくむものだと思う。そろそろ「空気」に負けず、忖度にせず、それぞれ思ったことを言える世の中に変えていかなくてはいけないと強く感じた。