ブログに書くの久々すぎる・・・。
現在放送中のアニメ「さらざんまい」にハマったのを契機に、
長年気になっていたアニメ「少女革命ウテナ」を観た(初見)。
先日全39話を完走し、ちょっとこれは文章に起こして消化しなければ…、
と思いつらつらと感想を書くことにする。
1997年のアニメってことでもう考察はされ尽くしてるのだろうけど、
他の方の考察を見る前に、まずは自分なりの私観をまとめてみようという試みです。
※以下、おおいにネタバレ含みます。
まず、見始める前は耳に入ってきた断片情報から本作は
「百合アニメなのだろう」と思っていた。
OPの映像を見て、「ああ、このピンクの髪の子と褐色肌の子がカップルなのね」と思い、
しばらくはそう思って見進めていたところがある。
そしてこれまた入ってきていた断片的な事前情報とOPの歌詞・映像から、
「最後には2人は離れ離れになるのね」というのもうっすらわかっていた。
そして私の結末予測は「ウテナとアンシーは両想いになるが、アンシーが消えるのだろう」
↑実際OPでは冒頭ウテナとアンシーが映っているが、同じ構図のラストカットでアンシーが消えている
と想像していた。
そしてその私の甘い想像は終盤・ラストで見事に裏切られた。
書きたいところから書く。
この作品は女の子がジェンダーの形を革命する物語であると私は理解した。
製作者側がそれを明らかに意図して作っているとはっきりと気づいたのは34話。
ウテナが忘れていた幼い頃の彼女と王子様との出会い。
ウテナの「王子様になる」という願望は、
「王子様を守るため魔女になりとらわれ苦しみ続けるアンシーを助けたい」
という想いに端を発していたことが明らかにされる回である。
それまでもうっすらと感じていたが、アンシー(=薔薇の花嫁)は、
男性に隷属していたかつての女性(観)に他ならない。
男性に付き従い、意思を持たず(持ってはならない)、時に虐げられていた
古き時代の「女性観」。
そしてアンシーを魔女として、薔薇の花嫁としてとらえているツタは、
そういった凝り固まった風習や通念のメタファーだ。
ウテナはそれを開放し革命する存在として、王子様にあこがれる女の子でありながら、
王子様になりたい女の子として描かれた。
男性や社会通念に抑圧されてきた女性を、同じ女性でありながら新しい価値観を存在が解放する物語なのである。
私的にこの作品のしびれるところは、そんな王子様としての役割を背負ったウテナも、
王子様を待つ女の子としての側面も持っており、その間での揺れ動くところだ。
終盤、ウテナは王子様(暁生さん)に憧れる自分(=古い女性観)と
王子様になりたい(=新しい女性観)自分の間で揺れる。
最初から王子様になるという強い意思を持ち、それを貫ける女の子は格好良いが、
それではこんなにも物語がスリリングにならなかったし、女の子の共感を得られなかったと思う。
最終的にウテナは自分が王子様として革命者になることを選択するが、
自分で葛藤した上でそれを選んだ、ということに尊さや選択の重みを感じる。
ジェンダーの物語であることに気づいてから見ると、
暁生さんや冬芽先輩は男性性の象徴であることがわかっていろいろと腑に落ちた。
(なんでスポーツカー?と思っていたがあれも一昔前の男性性のシンボルだ。)
しかしながら、私は最終回、なぜウテナが消えなければならなかったのかが
いまいち腑に落ちなかった。
アンシー(とらわれていた女性)の開放の犠牲になぜ、革命者のウテナが犠牲に
ならなければいけなかったのだろう、と。
でも文章書いてて気づいたけど、「ウテナ」っていうのは台=踏み台って意味があって、
物語の結末は最初から暗示されていたようだ。
そして最終話で突き去ったおびただしい数の剣。
あれは新しい価値観に反対する無数の人々の攻撃の声や視線だったのかも。
ウテナはそしてそれを一身に引き受けた。
アンシー、そして古い女性観にとらわれた視聴者、そして新時代を生きる女の子視聴者のために。
しかし、この作品をリアタイして育った女の子はきっとウテナの姿をうちに刻んだのだろうな。
そしてそれに力をもらって、今現在世の中を革命しているのかもしれない。
そう思うとかなり胸が熱い。
視聴前は、「ウテナ=百合」というイメージがあったと書いたけど、全話完走した今はその感覚は私にはない。
ウテナとアンシーはすべての女性たちの分身であり、概念に近く、
誰かと誰か関係性(恋愛・友情)の物語というよりは、神話に近い物語だと思う。
私は、個人的に「女性として生まれたすべての人に絶対観てほしい!」と思ってる作品があって、
それは今まで吉田秋生さんの「BANANA FISH」とNHK朝ドラ作品の「カーネーション」だったんだけど、
この「少女革命ウテナ」もそこに加えたいと思う。