幸田文と木
木 幸田文
- 幸田 文
- 木
エッセイの名手と呼ばれる幸田文の木にまつわる1971-84年までの15編のエッセイ。
木について学問的知識はほとんど素人のまま、しかし感受性豊かに真摯に木に対する姿は、ぐっと胸を押すものがあります。
そのうちの1つを紹介します。
材木とするための木を見たとき、実は同じ高さ同じ太さの木にも、できの悪いものと良いものがあるそうです。
例えば何かのかげんで、傾いてしまったもの。
大風か、斜めから入る日光か、虫か、鳥か、何のせいかはわかりません。
しかし、すこしでも傾いたまま伸びた木は、アテ、と呼ばれて使いものにならないそうです。
考えてみれば、あれだけ自重の重いものが斜めになってしまったら、伸びているほうは引っ張り、縮んでいるほうは伸ばそうと、幹の部分はしているのでしょう。
こういった部分を材木にしようと挽くと、材は歪み、反り、割れてしまいます。
これを山に入り一本はまっすぐと伸び、一本は傾いてしまった檜を見ながら説明を受けていた幸田文は
「そんなのはひどい。さんざんつらい目をしてがんばってきたのに。木の身になってみたら恨めしくて悔し涙がこぼれます」
といいますが、相手も
「こりゃ珍しい、アテを劣等といって怒られたのは初めてだ」
ときょとんとしていう。
そこで幸田文は、自分の目で確かめなければ、このままではすまされないと思い、アテがどんな風に役立たずか、見せてもらえないか頼みます。
では、一旦帰京して出直してくれと、担当の人。
「材木だとしか思わないからアテなんてこれまで心にかけたこともなかったが、言われてみれば木も人間も、生きているに違うところはないのかもしれない。アテを哀れといわれれば、身につまされるおぼえもあるよねえ。すんなり暮らしちゃこなかったんだ。」
そして通知がきて製材所へ。
では挽きましょう、といわれると、製材所の他の音がやみます。
特別にアテを挽くのを見せてくれるからです。
最初のうちは問題なく挽いていきます。
でも柱はとらず、板ばかり。
これは、アテのひどいところをはずすからそうなってしまいます。
そうしていくうち、素直に裁たれて板が、ぐっと反りはじめます。
「な、わかったろ。アテはこうなんだ。だからワルなんだよ」といわれます。
何とかならないかと板を触ると、とても固い。
それでも、仕様がない、とはどうしても思えない。
そしてもう一度挽きはじめると、動いている刃が止まります。
楔を打ち込んで刃を少しずつ進めると、すうと刃が通り切れていくかにみえたとき、また刃に抵抗がきて、その瞬間、木が裂けてしまします。
そして幸田文は裂けた木を抱き、途方にくれてしまいます・・・
そんな何の答えもないエッセイですが、何か大切なものを含んでいるように感じます。
読んでいて、実は文章も上手いのかも分からず、老齢のせいか生き急いでいるようにも見え、心安らかなエッセイではありません。
でも、なにか惹きつけるものがある、まるで知らない国の伝統料理を食べたような、そんなエッセイ集でした。
また、一番最初の、北海道のえぞ松の自然林には倒木更新、というものがあって、倒木した木にの上に新しい木が生えるので、森でよく目を凝らすと、いくつもの直線に沿って生えている木々を見つけることができる、という話も興味深かったです。