さてさて、母を観察していると、あれ?と思う点が時折現れる。


これは、意識が拡大したときのものにすごく近い、というか構造自体は同じ。拡大傾向にあるのはわかってたけど、あれ?なんだ?ん?

となる場面が出てくるのだ。


拡大してあれかよと、やや絶望したりもするのだが、違いがあるとすればサイズだ。

おそらく、肉体意識としての拡大版と言える。


わかりやすく言うと、普通はこの肉体が私と認識してると思うが、母のようにASD傾向が強いと、家族、身内くらいまでを私と認識する。


これはいくらか個人差はありそうだが、システムとしてはそんな感じで、だからこそ肉体ごとの自他の境界を認識しにくいのだ。


これはあくまで肉体意識における拡大であって、魂意識には到達していないため、私と私でないもの、敵と味方といった二元が強調されやすい。


これがさらに拡大してマックスになり、敵が強調されると、いわゆる統合失調症の症状と近くなる。このとき、サバイバル意識の原初的な、肉食獣に狙われる感覚が研ぎ澄まされ、監視されている、命を狙われているという意識に覆われて、窮鼠猫を噛むくらいの追い詰められた感覚になる。

意識は実体としてあるため、それは幻覚や幻視として現れる。それが他者に見えないのは、世界が閉じていて個人感覚の共有がないからだ。


世界は閉じているが、繋がってはいる。連結通路の扉が閉まってる感じだ。なので風景や人や物などの情報自体はその通路から導入されて共有されている。



感覚は、厳密にいえば共有ができないが、波長の共鳴により推測ができる。例えば、誰かが落ち込んでいるとする、その気分の波長を察知して慰めるが、その微細な詳細まではわからない。


ASDの人は、その波長を察知する機能が低い。前頭葉辺りのニューロンで察知するのだが、そこに機能障害がある。なので、誰かが落ち込んでいるのを見ても、そういうポーズ(形をしている)としてしか認識できない。



この状態は、意識が拡大して集合意識を抜けた先で俯瞰的にみる自分の世界によく似ている。集合意識を抜けるまで、人間関係のあれこれは全て自分とのやり取りで、世界には自分しかいない。


意識はフラクタル構造なので、つくりはおなじということだ。



そう思うと、あのASD母も確かに自分の意識の現れと捉えることができる。見渡せば、同じ構造を至るところに観ることがどきる。



閉じているというのは、そのなかにいるとわからないが、外から観察したときにわかることなのだろう。

ふむ。確かにここも意思の疎通は難しそうだ。



どちらにしても、集合意識を抜けたとき、俯瞰的に眺めることができる。それまでは、それと知らず自分との格闘を繰り広げる。


そのシンプルな構造が、見えるものとしてASDのひとの世界としてある。自分の中の恐れや不安と戦っているのだ。彼らにとっては、自分しかいない世界である。構造は同じだ。



恐れや不安はサバイバル意識の生存本能と直結している。それは安心と安全への渇望だ。ときに愛情に似たものを纏うので、疲弊する家族やパートナーも出てくるが、それがそこへ配置されているのには深い訳がある。


どうしたいか、どう扱いたいかが選択の指針になる。何を選択しても間違わない。



どのみち、いつかどこかのタイミングで、統合を選択することになる。



最も自分ではないと思う者を、私だったと統合する日が来る。かなり高い次元と低い次元での観測になるので、



ま、お互いがんばろね。