自己認識ってひょっとしたら、私とはどういう人間であるかとか、どういった性格なのかとか、いわゆる個人の性格的なものを指してると思ってる人いるかもしれない。どういう能力があるか、とかね。
まぁ、それも含むっちゃ含むんだけど、そういうことではなくて、意図=結果の意図を確認していく作業なんですよ。
意識が拡大したとき「全ては私」という感覚があることはご存知だと思う。この全てというのは、「私が捉えてる世界まるごと私」というもので、肉体に止まらないんですね。
まぁそれでもこの肉体以外が私だとは思いにくいので、肉体の私から始めるわけですが。
何を思い、何を感じているか、です。
それが世界を作るので。
なのでそれを知らなくてはなりません。
自分がどんな世界を作っているか、というシステムを理解せずに意識的に再構築はできません。
素材が多いので複雑な計算結果が出力されますが、その指令は意図のみです。
何を思うか、は、それほど決定的な指令なのです。
「かったりーーー」がそれほどの威力を持ってるとは思いにくい!わかる!
「もーさー、あいつほんと嫌なんだけど」が、ただの愚痴に止まらず、その指令を元に世界がダイナミックに動いていることに気付かないのも、めっちゃわかる!
そこには力みもなく、こぼした程度のちから加減なのに、世界は「はっ!かしこまりました!直ちにご用意致します!」とばかりに即座にその通りの現実を提供する。全ての辻褄が合うように。
顕在意識のパワー、ほんととてつもない。
自己認識はその意図という決定的な指令を認識することなんですよ。
世界の全てで「私」を表現してるので、肉体は中心ではあるけど全体の一部でしかない。この肉体だけでは「私」を表現しきれないので、その表現しきれないとこは他者に見えるところに託してるわけですね。
他者はどこまでも自分ではない誰かでありながら、どこまでも「私」の意識の一部を担ってくれてるわけです。
自分を知るということは他者を知るということであり、他者を知るということは自分を知るということです。
「私」は「私」を知ることしかできないけれど、まだ見ぬ私の可能性を見せてくれるのが他者でもあります。
自己認識を進めていって集合意識を抜けた先に、可能性を表現する他者に出会います。それは同じ肉体を持つ他者の知らなかった一面かもしれない。
自己認識は肉体の「私」に止まりません。
