わかる と わからない の考察をしていた。
この肉体はとても小さく容量もしれてるので、情報のほとんどは外に置いている。
それはアカシックだったり、ネットだったり、本だったり、誰かだったり。
基本的にわからないという状態は情報が単体として点在している状態で、わかるというのは、情報と情報が繋がってパターン認識される状態と言える。
わからない というのには段階がありそう。
- そもそもわかるわからないもない状態
- 何がわからないかわからない状態
- わかるとわからないがある状態
- 全部わかった!の次
わかる わからない がない
この状態は無いに等しく、認知のない状態なので、まぁほっといていいかな、と。
何がわからないかわからない
何か知りたいという衝動があって、そのエリアに入ったとき、点在する情報がただただあって、その繋がり(パターン化)がされていない状態。個々に処理する必要があり脳の負荷が高く、困惑や萎縮、不安といった感情に近いものがあり、身体感覚として孤独を感じる場合がある。
一方で、潜在的な繋がりの可能性があり、不安より衝動が勝る場合それは創造性に繋がる。
わかる と わからない がある
知りたいエリアをある程度探索してパターン化が進むと、わかる と わからない(パターン化がされているところと、されていないところ)が明確になる。この時期は楽しいという感情があり、パターン化を進めていく。全部わかった からの わからない
パターン化が進んで、だいたい把握した!あとは応用だけじゃね?という一種の全能感を味わう。ここで満足すればそのエリアからは退出となる。さらに深い探求心があると次の段階に進み、そこには広大な わからない がある。
わかる と わからない は、だいたいこれを繰り返す。
ここから意識に入ります。
私が着目しているのは、この 何がわからないかわからない が続いている状態。
これは学力と必ずしも一致してなくて、学校の成績はよくて、なんならけっこういい大学に行って教員試験にも受かるような人でも、この状態を持ってる人がいる。
この意識エリアはほんとに負荷が高く、困惑の一言につきる。ほとんど霧のなかにいるような感じで、動きにくいし見通しが悪いし、まるで感覚のいくつかが無くなっているようだ。
目が見えない世界に似ている。
耳が聞こえない人の転生もこんな感じだった。
音は触覚との共感覚か。
平手でぱちぱちと叩かれるような不快感がある。
当然といえば当然だけど感覚過敏がある。
情報は細かく点在していて繋がりが見えない。
ああ、繋がっていないという感覚が孤独感を引き起こすようだ。漠然とした不安。言語化される前のもっと曖昧な不安感。
この状態で意識は拡大できるだろうか。
ああ、そうだよね、感覚を広げるしかないよね。空気の振動や微かな音に意識を集中してみよう。手を広げて。感覚で世界を捉える。
あー、これはヨガとかそっち系の手法か。
なるほどね。
なるほど。
うん、これは使えそうだ。