先日母が、ある布を持ってきた。

それは昔私が作ったゴムスカートで、もう捨てよかなというときに、じゃあちょうだいというのであげたやつ。

それは裾にゴムが通され、だるまストーブのカバーとして20年ほどの長期間役目を果たしていた。それを持ってきてこう言ったのだ。


「これ、あんたまだ履けるんじゃない?」


母が愛してやまないと自負している娘に、こういったことを躊躇なくできるのは、やはり自閉のなせる技なのだと思う。


そして私はこの母に本来の意味で愛情を受けることはないのだが、スピリチュアルで言えばこの母も私の意識の一部なのだ。


せっかくだしということで、ファーストインパクトはなんだっけと記憶を探したら、腐るほど出てきてどれが一番古い記憶なのかさっぱりわからない。


ああ、あの時も、あの時もあの時もあの時も、毎度困惑し、言葉を失いつつも受け入れ、傷付いてきたわ!自分はその程度の存在なのだと打ちのめされてきたわ!


とりあえず、そういう時の困惑を解放した。


困惑をさらに分解し、中にある感情や認識を洗い出す。


大事にされない・どうでもいい子・捨てるのが忍ばれるときにとりあえず渡す・ないがしろにされる・家族は後回し・尊重されない等々。


もうちょい自分を尊重しよ。

自分を喜ばしたろ。

ついでに意識のなかをふわふわにして、気持ちよくしとこ。


あとは、要らないときには要らないといえばいいし捨ててもいい、使えそうなら貰えばいいし、その時々だな。


傷つき続けた私よ、お疲れ!


母親は子供を愛すものなはずという集合意識も解放しとこう。愛せない人や、愛し方がわからない人もいるし、愛という概念さえ人によってまちまちで、執着や物欲と混同する人もいる。


私に寄り添ってくれてた父に、改めてバグを送り、一番の理解者である息子に愛と感謝を送り、たいへんだったんだねと言ってくれる友達にありがとうを送り、母以外からはちゃんと愛情を受けていることを認識し直し、母の自閉も受け入れ、一式まとめてよしとした。



さて、その上でだ。

ストーブのお下がりは案外何かにはなりそうな気配も漂わせている。


なにつくろかなー。