あるよねーー。処罰感情。
いじめっこに対して、毒親に対して、自分を裏切ったパートナーに対して、パートナーに近づく異性に対して、犯罪者に対して、不道徳な人に対して、悪の組織に対して、等々。
それらの人は自分や大事な人たちを傷つけて、安心と安全を脅かし、平和を奪い、不当に搾取し、尚且つそんなことをしておいて、自分は幸せになろうとしている。
許せない!!!!!!!!
謝れ!土下座して心から謝罪しろ!
自分がしたことがどれだけ酷いことか、
その身に刻み付けて地獄でのたうち回るがいい!
まず、処罰感情はあっていい。
全然おっけー。
そりゃそうだ、当たり前だ。
怒りの炎で世界を焼き付くせばいい。
そこはホントに地獄だよね。
なのに相手は地獄にいない。
こんなことが、あっていいはずがない。
私や愛する人がこんなに苦しい思いをして、
なぜお前がそんなにのうのうと生きているのだ!
その感情を持ち続けることに疲れはてたら、手放すのもアリだと思う。
そういうひとはもう気づいてるよね。
そこに出口がないことに。
処罰しても、何度殺しても、どれだけ罵詈雑言浴びせても、その恨みが本当に癒されることがないことを。
相手が自分の辛さを本当に理解して、同じように傷付いて、心からの謝罪でしか救われることがないことを。
でも、それがあったとしても、その人が笑ったら腸煮えくり返る。終わらない処罰感情。
私今、母から金銭的援助を受けてるんだけど、口ではありがとうと言いながら、処罰感情も健在で「そもそも私がメンタルやられたり線維筋痛症になったのは、あんたのせいですやん。こんなん慰謝料でっせ。」と思ってたんだよね。
感謝なんかできるか、と。
で、あー…と思いまして。
葛藤なく処罰感情振り回すと気持ちいいなと。
で、この線維筋痛症を証拠物件として提示してるな、と。
ということは、処罰し続けるかぎりこれ治らんなと。
処罰だー、と思うためには何かしらの被害が必要になり、また引き寄せちゃうなと。
意図=結果なのでね。
そっかそっか、持っててもいいけど、まぁすっぱり手放してもいいなと。めんどくさいから。
そんなことを思いまして、処罰感情と被害者意識を手放してみた。このとき私の中の加害と被害は比重が同じになり、望む方を選ぶだけ。
まずは、何より自分がどんなに辛かったか、自分の言い分をよく理解して寄り添ってあげるとこから。
過去は変わらないけど、認識の幅を広げることはできるし、いろんな視点を持つことで見方も変わる。自分を許さずに人を許すことはできない。
そこにある感情を味わい尽くしたら、魂意識の目的は達成して飽きる。飽きたときが終わりの時。
終わりのない処罰感情と被害者意識も、手放そうとさえ思えば手放すことはできる。
