受け入れることと許すこととって、人によってはちょっとややこしく感じるとこだと思う。


例えば嫌だーって感じることを受け入れるということは、その嫌なことを甘んじて受けるみたいに感じることがあるかもしれない。


私がまさにそうだったんだけど、母の理不尽さを許して受け入れることは、私はその理不尽を受け続ける結果になって結局疲弊すんじゃん、みたいな。


でもそうではなくて。


例えば母が私に愚痴を聞いてほしいと言ってくる。これは、私にとっては大好きな父の悪口を聞くことなので、聞きたくない。


幼い頃私は母の意識下にどっぷりいて、父は母を理解しないひどい人だと認識していたので、私が母の理解者になって守らなくてはと思っていた。


この意識のまま現実として現れたのは、母が母の弟妹と一丸となって「お前はお母さんの愚痴を聞いてやる義務がある。」と私に訴える。果ては父の前で父の悪口を三人がかりでおっぱじめる。


私が聞きたくないと言っても幼い私がそれを許さないの。まいるよねー。


まず幼い私を解放するでしょ?

お父さん、そんなの悪い人じゃなかったよ。お母さんの味方はたくさんいるよ。ちびサトコはお母さんを守らなくても大丈夫だよ。でもそう思ってくれてありがとね。お母さんと意見が違うことがあってもOK!

その頃の感情も吐き出しとく。


他のもいろいろ絡んでるので、手当たり次第解放して認識を書き換える。


そうこうしてるうちに、いつのまにやら母はヒステリーを起こさなくなっていた。


そして、私が母の失くしてほしかった理不尽さを、否定も肯定もせず、ただ「そうなんだね」と、それがあることを認識する。


このそうなんだね、が、許しであり受け入れること。私が一番言って欲しかったことでもあった。


そうなんだね。

でも私は聞かないよ。


これでよかったのだ。これは、母の主張も受け入れ、自分も受け入れ、なおかつ自分の選択を示すこと。


このただ認識するシンプルさ。


何も否定せず、

かといって肯定するでもなく。

ただ在るという認識。


そこにマグカップが在るように。



これが許すということ。