何年か前の意識拡大時、

自分が見たり聞いたりしている世界は、

いったいなんだったのか、をハッキリと見た。

 

その後はもちろん戻ったのだけど。

 

それはテストの答えを事前に見てしまったようなものだった。

 

 

 

その答えが、大前提としてある。

 

 

 

その頃は絶賛足掻き中だったので、

ぎゃーぎゃー言いながらも、

いや、だがしかし、と模範解答を手繰り寄せるのだ。

 

 

世界は私の意識だけで構成されている。

 

全てはすでに存在を許可されていて、

すでに愛されている。

 

許可したのも愛したのも当然私だ。

私の意識だけで構成されているのだから。

 

私の意識がただ映し出されているだけだ。

 

 

というところから、

でも私はこれが許せんのじゃーーーー!!!と思った時、

当然その許せん意識もあっていいものとする。

あっていいとした上で、

なぜそう思うのかと自問自答する。

 

自分のどんな意識と意識が対立してるのかを見る。

そしてそこに綺麗な循環を見たとき、

ああ、なるほどね、と思う。

 

その循環をそばに置かなくて良いと思えば、

自分はそっと「やめる」だけなのだ。

 

その循環を私は知っている。

私の意識にある以上、

それは世界に表れる。

 

ただそれだけのもの、となる。

 

濃かった意識は薄くなる。

 

 

 

誰かに対して、

ああ、それではいかんのだよ、と思った時、

あ、今私はジャッジをしているのだな、と認識する。

 

そうかそうか、ジャッジをしているのか。

 

何をジャッジしているのか?と自分に問い、

その循環をあぶり出す。

 

その循環があるからこそ、

こういう感情を味わえたのだ、と思う。

なるほど、たしかに味わい深いなどと思ったりする。

 

完全無敵の魂意識がこの感情を味わう為には、

そりゃーこのくらいの思い込みがないとね、と思う。

 

世界の至る所にその循環を見る。

 

ああ、私のこの意識が表れているのか、と思う。

それは味わい深いよね、

あきるまで楽しんでおくれやす、と思う。

 

 

この、完璧な不完全である世界は、

その不完全さゆえにころころと転がり続ける。

 

理想とは程遠いと思った世界も、

実のところ、そういった構造を持つ理想郷だった。

 

 

 

 

 

 

ゆうべ、母と先祖を送り返した。

 

母が言う。

 

「毎日お仏前をあげるとき、食べにきてねって言ってるから、

みんな毎日来てるのに、わざわざ灯を灯さないと帰れないっておかしいね。」

 

「そうだね。ま、お盆なんて儀式だからな。

やってもやらなくてもいいけど、まぁやろっかな、くらいでいいんじゃない?」

 

母は、今年ほおずきを買えなかったことに、

小さな罪悪感を感じていたのだと思う。

 

先祖たちがほおずきの提灯を手に、

賑やかに帰る姿を思ったが、

その提灯が今年はないのだとすれば、

懐中電灯もたせればいいじゃん。

風情はないけど文明の利器だぜ。

 

その姿を思って、なんだか笑えてきた。

 

それはそれで楽しそうだ。