見ようとすると消えちゃうから、

文字に残しとくわ。

 

 

 

まずさ、

コントロールって何って話よ。

 

洗脳とか支配とか

いろんな種類があるとは思うんだけど、

教えとか教育なんかも入ってきちゃうんだよね。

なんならお願いとか、お誘いまで入ってきちゃう。

 

そうなると境界が曖昧になってくるよね。

 

で、そもそも、

する側、される側も自分なわけじゃん。

なにやってんのって話なの。

 

で、意図と結果なわけだからさ、

そこでは需要と供給が満たされてるわけ。

そうなると、あれれ?コントロールってなんだっけ?

みたいなっちゃうの。

ふわーって消えそうになるじゃん。

 

ここで、まいっかーになりそうな自分を引き止めるわけ。

 

 

例えば支配とかだと強制力が強くなる感じがする。

さらに言えば没入感もはんぱなく強いし、

信念とか使命感とかとも結びつきやすい。

 

で、私にかかるブレーキはそこへの嫌悪感だったりする。

 

この嫌悪感は、蝿がうるさいのにも似てて、

あーーーもーーーーう!ってのがくっついてる。

これは要するに、例えばカルト教団への嫌悪感ではないわけ。

かといって信者への嫌悪感でもなくて・・・、

なんだろ、その界隈にある正義の攻撃性とでもいうか。

 

ぶんぶんうるさい蝿が気にならなくなるのか?

 

うるさいって思うのはいいの。

気にならないってとこにもってきたい。

 

たぶん私はコントロールそのもはどうでもよくて、

コントロールはあかん!ってうるさいのが嫌なのね。

 

例えばさ、多様性を受け入れようよ!って言って、

多様性を受け入れない差別者を非難する人とかに対して、

いやいや、それを言うなら差別者もいるという多様性を、

あんたが受け入れればいいんじゃないの?って思うわけ。

 

ん?

ということはだよ?

差別者を非難する人もいるという多様性を、

私が受け入れればいいだけのことか。

 

ついでに差別者を非難する人を毛嫌いする人もいる、

という多様性も受け入れとくか。

 

で、こういったとこらへんには、

まずまずコントロール的なものが介在すんのよね。

 

コントロールそのものは、

あるとも言えるしないとも言えるようなもんなの。

 

悪くもなければよくもない、そういうもん。

 

 

だって、エアコンのコントローラーなんて、

正義も悪もないものだからね。