日常生活の中で愛するものを失う悲しみというのは、

その対象を認識しようとして五感でそれができず、

着地点を失ってさまようところにあるなぁと思います。

 

ものすごく些細な、でも頻繁に、無意識に行うその作業が、

失ってしまったことをその都度再認識するので、

深い悲しみと寂しさになるのだ。

 

そしてその相手を、自分がどれだけ愛していたかを知る。

 

 

例えば目視するほどでもなく、

気にするという程度の些細なところにある。

 

椅子を立つ時、茶碗を洗う時、部屋を歩く時、

そんな小さな行動と、その存在が結びついているために、

いちいちその欠けたと思う部分に意識が行く。

 

 

そして、いないことに慣れるという時間薬が処方される。

 

 

いつも笑い話として思い出していたことも、

ああ、もうそれもないのだ、と「ない」ところへ落としてしまうので、

悲しみは降り積もり、ますます深くなる。

 

 

私も悲しみに暮れているのだけど、

 

なんだろう。

 

 

このへんで豆太が、

「ああああああ、かーちゃんかーちゃん!」と、

わたわたしてるのを感じるのだ。

 

肉体がないので、突進されても痛くなくていいのだけど、

おちおち悲しみに暮れさせてくれないというか。

 

むしろ、

あ、いいから、落ち着けって。

せっかく世話するもののいない自由も味わってるので、

そんなに慌てて次の体を探さなくていいから。

 

ちょうどいいのを吟味してくれ。頼むよほんと。

かーちゃんまだ体痛いし、子犬とかちょー大変だし、

ちょっとまだ勘弁な。

 

と言って、やつの暑苦しいまでの真っ直ぐな愛情をかわしている有様だ。

 

 

せっかくのロマンチックな悲しみを返せ。

 

 

 

まぁ、犬をなくすのも、なんだかんだ4匹目だしね。

毎度悲しいけど、時間薬の効き目も知ってるしな。

 

 

ああ、もう、半分に切っちゃった毛布、どうしようか・・・。

そして余りに余った吸水シートよ。